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スイス技術系チームのエースとして、息の長い活躍を続けたミヒャエル・フォン・グリュニゲン。

柔らかな物腰の下に熱い闘志を秘め、淡々と勝利を積み上げた。

ワールドカップにおける通算勝利数は23。

そのすべてをジャイアント・スラロームで記録したGSの名手だ。

ワールドカップの種目別タイトルを4度獲得し、しかも4度目の栄冠は現役生活最後のシーズンだった。
彼の端正な滑りは多くのファンの心をとらえた。

けっしてスターらしくはないが、その存在感は間違いなく大スターのそれだった。

鈍く光るいぶし銀の輝きで、ワールドカップシーンを照らし続けたGSチャンピオン。

彼が駆け抜けた最後の冬を振り返る。
 

(月刊スキージャーナル2003年7月号の掲載の記事を再構成したものです)

 2001/02シーズンのワールドカップGS第6戦で、ミヒャエル・フォン・グリュニゲンは久しぶりにノー・ポイントという屈辱を味わった。1本目を7位でゴールしたものの、滑走中に右肘を負傷し、2本目はとてもスタートできる状態ではなかったからである。会場は地元スイスのアデルボーデン。ワールドカップでもっとも難しいGSコースであり、この種目では現在のワールドカップでもっとも多くの観客を集めるレースだけに、彼にとっても期するところが大きかったはず。しかし、その重要なレースで不本意な滑りしかできなかったことは、フォン・グリュニゲンに深い失望感を与えた。痛みはその後もなかなか消えず、さらに古傷の肩の脱臼もあって、しばらくの間、彼の滑りは精彩を欠いた。続くワールドカップGS第7戦では14位、さらに彼にとって、このシーズン最大の目標であったソルトレイク・オリンピックでも11位に沈んだ。ファンの誰もが期待し、もちろん彼自身強く望んでいたオリンピック金メダル獲得の夢は、はかない幻となって消えた。

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2001/02シーズンの最終戦フラッハウで優勝。このシーズン唯一の勝利だった

 だが、結果的にこの怪我がミヒャエル・フォン・グリュニゲンという素晴らしいレーサーの選手生命を1年間延ばすことになった。ワールドカップ・デビューから既に14年。その間20レースで優勝を飾り、世界選手権でも2個の金メダルを獲得している彼は、この頃すでに現役からの引退を考え始めていた。もし、ソルトレイク・オリンピックのGSで念願のメダルを手にしていたら、(メダルの色にはかかわらず)それをもって、自らの選手生活に終止符を打つことができただろう。だが、実際にはメダル獲得に遠く及ばない11位。3月のワールドカップ最終戦(フラッハウ/オーストリア)では、精一杯の意地を見せて優勝したものの、それで彼の気持ちが充分に収まったわけではなかった。

「2001/02シーズンが始まる段階で、すでに頭のなかには引退のことがあった。私にとって理想的な引退とは、トップに立っている間にやめること。反対に、ランキングがずるずる下がり始めてからやめるという引退の仕方だけは、絶対に避けたかった」。選手生活への幕の引き方に強いこだわりを持つ彼は、自らの引退についてこう語っている。つまり、彼がワールドカップを去ると決意するためには、最後にそれにふさわしい成績を残さなければならなかったのである。

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現役最後の冬と決めた2002/03シーズンの開幕戦では3位の好スタートを切った

 そう考えると、2001/02シーズンの成績は、非常に微妙なものだった。優勝が1回、2位と3位も1回ずつで、GSの種目別ランキングは6位。この数字は、一般的には充分にトップクラスの成績といえるだろう。期待が大きかっただけに、オリンピックでの惨敗には失望の声もあったが、最終戦で優勝したことで評価は一変。通算20勝目という区切りの良い勝利を最後にワールドカップを去ったとしても、誰にも文句はなかったに違いない。実際、シーズン終了直後は彼自身引退をかなり現実的なものとして考えたという。だが、それでも彼にとっては何かが足りなかった。この程度の数字を現役最後のシーズンの成績として受け入れるわけには、どうしてもいかなかったのである。迷い、悩み、考えた末に、フォン・グリュニゲンは現役続行を決意した。ただし、続けるのはあと1年だけ。2002/03シーズンを自分のファイナルシーズンとして戦うことに決め、最終戦の10日後、脱臼癖のついていた左肩を手術し、新たな戦いに備えた。


 手術は無事成功し、再び練習を開始すると、彼は自分がかつてないほど調子が良いことを実感した。夏から秋にかけて充実したトレーニングを積み、ほぼ万全のコンディションでシーズンの開幕を迎えることができた。そして開幕前にはメディアを通じて、次の冬が現役の最後のシーズンとなることを公表した。
 これは、非常に稀な例と言って良いだろう。選手が去就について発表するのは、多くの場合シーズンの終盤である。たとえこれが最後のシーズンだと決めていたとしても、開幕前にそれをアナウンスする例はほとんどなかった。しかしフォン・グリュニゲンは、あえてそれを周囲に明らかにし、自らを奮い立たせた。残された時間はあと1シーズンのみ。そしてワールドカップを去るときには、世界のトップに君臨しなければならない。そう自分を追い込むことで、レースに対する集中力とモチベーションを高めようとしたのである。

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美しく正確無比のテクニックは多くのファンを魅了した

GSが似合い、GSで輝く男

 フォン・グリュニゲンは、典型的な技術系レーサーである。出場するのはスラロームとジャイアント・スラロームのみで、若い頃を含め、FISの公認レースでダウンヒルやスーパーGに出場した記録はない。
「もし私がスーパーGに出場することがあったら、それはワールドカップの総合優勝を狙っている時だよ」

かつて、冗談めかしてこう語ったことがあるが、結局彼が高速系種目のスタートリストに名を連ねることはなかった。
技術系のなかでも、成績は常にGSの方がよかった。
「ジャイアント・スラロームは、私のレーサーとしての情熱をかきたててくれる。この種目はいつでも楽しく滑ることができるんだ」
ワールドカップ20勝をはじめ、世界選手権でのふたつの金メダル、そしてオリンピックでの銅メダルは、すべてGSで獲得したもの。一方、スラロームでは過去にワールドカップで2度2位に入っている。1994/95シーズンからの4年間は、スラロームでも第1シードの座を守っていたが、ついに優勝には至らなかった。フォン・グリュニゲンはやはりGSがもっともよく似合い、GSのレースにおいてもっとも輝くレーサーだったのである。現役最後となる2002/03シーズン、彼は種目をGS1本に絞った。スラロームは捨てて、すべての情熱とエネルギーを大好きなGSだけに注ぎ込むことにした。


 フォン・グリュニゲンは、開幕から好調なスタートを切った。第1戦セルデンでは3位に入り、第2戦パークシティ、第3戦ヴァル・ディゼールと連勝。種目別ランキングでトップに立ち、約2年ぶりに種目別リーダーのレッドビブを奪い返した。
 この段階で、人々は彼に4度目の種目別タイトル獲得を期待し始めた。1995/96シーズンにはチームメイトのウルス・ケーリンを退けて、初めてのクリスタルグローブを獲得。翌シーズンにはチェティル・アンドレ・オーモット(ノルウェー)にダブルスコアに近い得点差をつけて2連覇。さらに1998/99シーズンには、シュテファン・エベルハルター(オーストリア)との争いを制して3度目の優勝を果たしている。もし4年ぶりにフォン・グリュニゲンがGSチャンピオンの座についたなら、引退記念の土産としてこれほどふさわしいものはないだろう。
「いや、もし本当にそうなったとしたら、彼は引退の決議を撤回するのではないか、そしてあと何年間かは、彼の性格で鋭くそして現実的に移し美しい滑りを見続けることができるのではないか」ファンの期待は、そんなふうに急速に膨らんでいき、フォン・グリュニゲンは再びこの種目の主役に立ち戻ったのである。

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ヨンピョン(韓国)でもこのシーズン3度目の優勝。そしてこれが現役最後の勝利となった

躍進ボーディ・ミラーとの戦い

 そんな彼の行く手に立ちはだかったのは、ボーディ・ミラー(アメリカ)である。ミラーは第1戦4位、第2戦途中棄権と出遅れたが、第3戦以降の3レースで2位、1位、1位。この猛烈な追い上げにより、種目別ランキングでついにフォン・グリュニゲンを逆転した。
 早くからその潜在能力を高く評価されていたミラーだが、以前はあまりに失敗が多く、才能が結果に結びついていなかった。しかし昨シーズン、まずスラロームで大きくブレイク。そしてこのシーズンには、GSで急成長を遂げた。しかも彼は4種目すべてに出場するオールラウンダーとして戦い、総合得点でもシュテファン・エベルハルターと激しいトップ争いを演じていた。少し大げさに言えば、ワールドカップはボーディ・ミラーを中心に回り始めていたのである。若く勢いに乗るミラーと、現役最後のシーズンに闘志の残り火をかきたてるフォン・グリュニゲン。GSの種目別タイトルをめぐる新旧ふたりの一騎討ちは、2002/03シーズンのワールドカップでもっとも注目すべき焦点のひとつとなった。


 フォン・グリュニゲンとミラーのキャラクターは、多くの面で激しく異なっている。ワールドカップのなかで、そしてアルペンスキーの歴史のなかで、ほとんど対極的な位置にいると言ってもいいかもしれない。ふたりの比較において際立っているのは、リスクに対する考え方の違いである。ミラーは積極的かつ徹底的にリスクを冒す。ここまでいったら失敗するかもしれないというリスクを覚悟の上で、あえて危険な領域に踏み込んでいく。対するフォン・グリュニゲンは、可能な限りリスクを排除し、その代わりに合理性をとことん突き詰めた滑りが特徴だ。これはけっして完走狙いの安全運転ということではない。仮に100パーセントのアタックに出たとしても、滑りそのものにリスクをはらんでいないので、必然的に完走率が高くなるわけである。

 そんな特徴がはっきりと現れ、そしてその明暗がシーズンのタイトルに行方までも大きく左右したのが、GS第6戦だったのではないだろうか。舞台は、これもまたアデルボーデンである。ここのコースは幅が狭く、カーブとうねりがせわしなく連続し、しかもその多くが片斜面。フリースキーで滑ってもそれほど楽しくはなさそうなプロフィールである。しかしいざジャイアントスラロームのポールがセットされ、ワールドカップ・レーサーたちが集結すると、そこはスリリングな戦いの場に変わる。このレースでのフォン・グリュニゲンは、トップとわずか100分の8秒という僅差で2位に入り、80点のワールドカップ・ポイントを獲得した。対するミラーは、1本目前半の短い急斜面でスキー板が外れ、途中棄権に終わっている。もちろんポイントはゼロ。これによってふたりの種目別ランキングは再びひっくり返り、以後フォン・グリュニゲンは、ポイントリーダーの証であるレッドビブを手放すことがなかった。

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15年のワールドカップ生活の最後を飾る滑り。2002/23シーズンGS最終戦も3位で表彰台に立った

 ふたりの得点差はじわじわと広がり、最終戦を前にした時点では97点差でフォン・グリュニゲンが大きくリードしていた。もちろん可能性という意味ではミラーの大逆転もありえない話ではなかった。彼が最終戦で優勝し、フォン・グリュニゲンが途中棄権に終われば、3点差でミラーにGS種目別優勝のクリスタルグローブが転がり込んでくる。また15位までにしかポイントが与えられない最終戦の特別ルールを考えれば、ミラー優勝&フォン・グリュニゲン16位以下というランキングでも同じ結果となる。

もっとも幸せな引退

 そして2003年3月15日。2002/03シーズンの男子GS最終戦、すなわちミヒャエル・フォン・グリュニゲンにとって15年間に渡る選手生活の最後となるレースが、ノルウェーのリレハンメルで行なわれた。リレハンメルは、1994年の冬季オリンピックの開催地である。このときの五輪には、フォン・グリュニゲンもスイス代表の一員として出場した。彼はその前年のヴェイゾナ(スイス)で、当時全盛を誇ったアルベルト・トンバ(イタリア)を100分の8秒差で破り、すでにワールドカップ初優勝を記録している。したがってこの五輪においても注目を集める選手だった。有力な優勝候補とはいえないまでも、展開次第ではメダル争いに絡んできそうな有望選手のひとりといった存在だった。
 まだ24歳と若く、今よりは野心にあふれていた彼は、スタートから果敢にアタックした。そのスピードは目をみはるほどで、1本目の中間計時を1位で通過。しかし、その後スピードに耐えきれずにコースを飛び出し途中棄権。連日の強烈な冷え込みで極端に硬くなったアイスバーンの餌食となってしまった。当時から年齢の割には落ち着いた滑りをすると言われていた彼をもってしても、オリンピックの魔力は制御しきれなかったのである。
「あれは今でも悔しい思い出だ。当時はまだ若かったので、自分の気持ちの中に受け入れるのには、長い時間がかかった」。9年前のオリンピックの思い出について尋ねられたフォン・グリュニゲンは、こう答えているが、その屈辱のGSコースが彼にとって最後のレース会場となったのは、何かの因縁なのだろうか。

 この日彼が最低限しなくてはならなかった仕事は、15位以内に入ることであった。そうすれば、たとえボーディ・ミラーが優勝したしたとしても、GSの種目別タイトルは手に入れることができる。だがフォン・グリュニゲンは、それだけでは満足できなかった。ポイントを計算した無難な安全運転をするよりも、積極的に勝負を挑むことで、長い間心に引っかかっていた94年オリンピックの悔しさを晴らしたいという思いの方が強かったからである。
 1本目、彼は4位だった。対するミラーはミスを重ねて17位と大きく出遅れた。もはや勝負は決定的だった。2本目、フォン・グリュニゲンはさらにアタックの度を強め、合計タイムで3位に上昇した。ミラーも最後の意地を見せて、6位タイにまで挽回したが、もうそれが精一杯だった。

「朝、目覚めたときに今日で私のレーサーとしてキャリアが終わるんだと思い、さすがに感傷的になった。だけどレースには充分に集中できたと思う。今日のレースは単なるレースというだけでなく、種目別のクリスタルグローブがかかっていたからだ」
「最後のレースで表彰台に立つことができて最高だ。クリスタルグローブの獲得は誇りに思うし、何よりもこれで、リレハンメルオリンピックの失敗を忘れることができる」

レース後の記者会見で、彼はしみじみとした表情でこう語った。

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愛称は“マイク”。ワールドカップでは誰もが彼をそう呼ぶ。カメラマン殺到の表彰式で『マイク!』と叫ぶと、律儀に視線を合わせてくれた

 会見の最後には記者の全員に対し、まずドイツ語で、続いて英語で次のように別れの挨拶をした。

「すべての皆さんにありがとうと言いたい。皆さんとレースという素晴らしい場を共有できて幸せだった。とても楽しい時間を過ごすことができた。ありがとう、そしてさようなら」

こうしてフォン・グリュニゲンは、その手に通算4つ目となるクリスタルグローブを携え、ワールドカップから去っていった。チャンピオンの座についたまま、キャリアを終えれば、その輝きは永遠に続く。すべてのレーサーが夢見るこの理想的なハッピー・リタイアメントを実現したミヒャエル・フォン・グリュニゲンは、ワールドカップの歴史のなかでも数少ない幸せなレーサー、幸せなチャンピオンといえるだろう。

 GS最終戦の翌日、フォン・グリュニゲンはスラローム最終戦にも出場した。実は彼にとって本当の現役最後のレースは、スラロームだったのである。1本目は出場選手中ビリから2番の23位。2本目は、ここ数年の最終戦で恒例となっている“コスプレ”で観客たちに別れを告げた。彼にとって、このレースの順位はもはや意味を持たない。であれば、勝負へのこだわりは捨て、少しでもファンに楽しんでもらえるような姿をみせたい、そんな思いからの茶目っ気あふれる演出だった。

 それがこのページトップに使った写真だ。古ぼけたウールジャケットとニッカボッカをまとい、クラシカルな単板スキーに編み上げ式の革ブーツといういでたちで、フラッハウのスラロームコースをヨタヨタと滑り降りてきた。エッジのないスキー板は、ツルツルのアイスバーンに文字通り歯が立たず、何度もひっくり返っていたのがご愛嬌だった。だが、照れ臭そうに立ち上がろうとしたときに、一瞬見せた目つきには、確かに寡黙なファイター、ミヒャエル・フォン・グリュニゲンらしい鋭さが宿っていた。