事故現場x.png

相原先生キッツビュールに帰る

あの伝説的クラッシュから35年

ワールドカップの名解説で知られる 東海大学スキー部監督の相原博之。

スキー関係者の間では、もっぱら相原先生と呼ばれ親しまれている人物だ。
そんな彼が今年1月 、ワールドカップ第82回ハーネンカム大会のスペシャルゲストとして

キッツビュールに招かれ生涯忘れられない貴重な経験をしたという。

80年もの歴史を持つクラシックレースになぜ彼が、 しかもV I P 待遇で招かれたのか?

相原先生35年ぶりのキッツビュール再訪を追った。

『月刊スキーグラフィック2020年11月号』に掲載した記事を再構成したものです。

 キッツビュールで行なわれるハーネンカム大会には、例年豪華なゲストが招かれる。かつての名選手をはじめ、政財界の大物、芸能人や一流スポーツ選手など、冬の社交場として名高いキッツビュールにふさわしいセレブリティーたちが、今年も多数集結した。だが、いつもの冬と違うのは、そのなかにひとりの日本人がいたことだ。かつてダウンヒラーとしてワールドカップを戦った経験を持つ、東海大学スキー部監督の相原博之が第80回記念のスペシャルゲストとして招かれていたのである。
 現役時代、彼は3シーズンにわたってハーネンカム・ダウンヒルに出場している。当時の記録は残っておらず、FIS(国際スキー連盟)の公式サイトでさえ、順位がわかるのは当時の入賞圏内15位までの選手のみ。したがって必ずしも正確ではないが、本人の記憶によれば、40位となったのがキッツビュールにおける相原の最高順位だ。優勝者とのタイム差は3秒8。当時は5秒差以内につけることがひとつの目標だったので、それなりに満足できる成績だったという。

ヘリコプターで事故現場へ.jpg

オーストリア放送協会(ORF)が用意したヘリコプターで、マウスファーレに向かう。事前には想像もしてなかった歓待ぶりだった

 だが、相原が招かれたのはその成績ゆえではない。彼がハーネンカム大会の歴史の中でも、とびきり衝撃的な転倒劇を演じていたからである。
 話は1985年1月に遡る。当時日本体育大学の学生だった相原は、スタート直後の大ジャンプ“マウスファーレ”で激しくクラッシュし、右のすねをはじめ全身に多くの外傷を負ったうえに意識不明に陥ったのだ。
 テレビ画面にも大きく映し出されたそのシーンは、壮絶なものだった。飛び出す方向を誤り、上から見て右側にずれた飛行曲線は、コースとその外側にある岩混じりの林とを隔てる柵ギリギリだった。ジャンプの飛距離は約40m。直接コース外に飛び出すという最悪の事態は免れたものの、着地とほぼ同時に柵に激突し彼の身体は大きく跳ね上げられた。まず右スキーが外れ、その後まるでワラ人形のように柵の上をくるくると回転。2回転目にヘルメットが吹き飛び、ダメ押しのようにもう1回転した後、激しく雪面に叩きつけられた。その瞬間を目撃した人の多くは、彼の死をも覚悟したという。
「飛び出した瞬間から、一切の記憶はありません。気がついたら病院のベッドの上。何があったのか知ったのは、それからしばらくたって、ビデオの映像を見たときでした」相原はそのときのことをこう振り返る。
「キッツビュールは好きなコースでした。トレーニングランで19位になったこともあるし、次から次へと現れてくる難所を攻略するのが楽しいコースでした。転倒したときのことはまったく覚えていないので、復帰後も恐怖心がよみがえるということはありませんでした」

 多くのダウンヒラーを病院送りにし、ときにその選手生命を奪ってしまったシュトライフだが、幸いなことにこれまで死亡事故は1度も起こっていない。だが、このときの相原の大クラッシュは、ハーネンカム大会80年の歴史の中でももっとも衝撃的なシーンのひとつ。彼が最初の犠牲者にならなかったのは、幸運以外の何物でもなかったのだ。
 当時の安全対策は、現在ではおよそ考えられないほど貧弱だった。コースを仕切るのは、ネットでもフェンスでもなく木製の柵。選手の身体を守るため、というよりも単にコースとコース外との境を示す仕切りに過ぎなかった。
しかも、柵として使われていたのは、幅10cm足らずの板を金属のワイヤーでつなぎあわせたもの。なぜか板の上端は三角形で、例えは悪いが、まるでお寺の墓にある卒塔婆を針金で束ねたような代物だった。転倒時、その板の先端が彼の右足のすねに刺さり、そこから入ったばい菌のために激しく化膿。意識は翌日に戻ったものの、入院生活は1ヶ月以上に及ぶことになった。

 

ORF.jpg

ORFのインタビューに答える相原。手を乗せているのが復元された当時の柵。キッツビュールに限らず80年代の終り頃までは広く使われていた

もっとも有名な転倒シーン

 その一部始終が記録された映像が残っている。そしてオーストリアでは、現在に至るまで何度となくテレビで流されてきた。毎年1月の半ばともなると、オーストリアのテレビではハーネンカム大会特別番組が組まれ、過去の名シーンが繰り返し繰り返し流される。そのなかでも相原のクラッシュは、毎年欠かすことのできない“キラー・コンテンツ”だ。オーストリア国民の少なくとも半数は、相原の転倒シーンを見たことがあるだろう。
 そんな経緯から、80回の記念大会を迎えるにあたって、大会組織委員会(OC)では

「そういえば、あの日本選手は今どうしているのだろう?」と話題となった。

「もし今も元気に過ごしているのなら、ぜひ80回大会に来てもらおう」。

そして昨年12月、FISの委員を務める中村実彦SAJ理事を通じて、相原に問い合わせがあった。中村は相原と同時代に、日本のダウンヒルチームで活躍した中心選手である。
「キッツビュールのOCが今年の大会に招待したいと言っているんだけど、どうする?」中村の問いに相原はふたつ返事で答えた

「もちろん行きます」。
 

ケン・リードと相原.jpg

同じ時代を戦ったケン・リード。“クレイジー・カナック”と呼ばれたカナダ滑降部隊のエース

 こうして実現した35年ぶりのキッツビュール再訪。いざ来てみると、驚きの連続だった。とくに感激したのは、キッツビュールの人たちの手厚い歓迎ぶりだった。文字通りのVIP待遇。週末のみの滞在だったが、毎夜のパーティに招かれ、壇上で紹介され、いくつもの記念品を渡された。同じテーブルで食事をするのは、かつて雲の上の存在のように憧れていたレジェンドたち。フランツ・クランマー、ケン・リード、アンドレアス・ウェンツェル等々。誰もが相原のことを知っていた。
 ダウンヒルの前日には、マウスファーレの“事故現場”にも行った。てっきりゴンドラで上がるものだと思っていたが、待っていたのはヘリコプターだった。35年前、意識を失ったまま救急ヘリで吊り上げられたその場所に、今度はテレビ局がチャーターしたヘリコプターで着陸したのだ。

「懐かしいですね。自分にとっての聖地に帰ってきたような気がします。死ぬまでに一度はここに戻ってきたかったので、本当に幸せです」テレビのインタビューに相原はこう答えて笑った。OCでは、この日のために当時使われていた柵をそっくりそのまま復元して用意してあった。そして、それをさらにミニチュアにしたトロフィーを彼だけのために作ってプレゼントしてくれた。間違いなく一生の宝ものだ。

カール・フレスナーと相原.jpg

スイスやオーストリアのコーチを歴任したカール・フレスナーと。同じ指導者として親交も厚い

ミヒャエル・フーバー.jpg

キッツビュール・スキー・クラブ会長のミヒャエル・フーバーと。彼を筆頭にすべての人たちが手厚くもてなしてくれた

 ところで、失敗の原因は何だったのか? 彼はなぜあんなに右側に飛び出したのだろうか? 
 そんな問いに対しての答えは、かつてのダウンヒラー、現在はテレビでワールドカップ解説も務める彼らしい理路整然としたものだった。
「自分の狙いとしては、できるだけコースの右側に着地して、続く左・右のS字カーブへスムーズにつなぎたかったんです。そうしないと着地直後のクニックで潰されてしまうか、そうでなくても左ターンが直線的すぎてタイムをロスしてしまうと考えました」
クニックとは、急斜面からいきなり緩斜面に移る地形のことだ。当時のコースは、現在よりも急から緩への変化がきつく、多くの選手がここで失敗した。
「今は人工降雪機もあるし、雪上車やインジェクションのマシンを使ってコースを作りますが、当時はすべて人間の手作り。雪も軟かいのでクニックにまっすぐ突っ込むと、下からの突き上げで潰れたり、後傾になってスキーがウィリーしてしまう。それを避けようと右を狙って飛んだのですが、でも少し右過ぎました。それは自分の失敗です」
と悔しそうに語るが、さらにこう言葉を続けた。
「でもあのとき転んだからこそ、こうしてまたキッツビュールに来ることができた。皮肉というか、人生何が起こるかわかりませんね」
 問題のシーンは、ユーチューブを探せば当時の映像がたくさん見つけられる。しかしほとんどはテレビ画面を勝手に録画した違法アップロードだから、ここで紹介するわけにはいかない。もし実際に見てみたいという方は、ドイツのテレビ局が公式にアップした映像があるので参考にしてほしい。10分57秒あたりに相原の転倒シーンが紹介されている。


最後に、ひょっとしてあまり見てほしくないなんてことは? と尋ねてみると相原先生は快くこう答えてくれた。
「いえいえ、そんなことはありません。ぜひ皆さんに見てほしいですね」

 

※ 文中敬称略 写真は本人提供