
月刊スキージャーナル2005年8月号の掲載記事を再構成したものです。
ボーディ・ミラーは少年時代からとんでもない行動で周囲を驚かせることの多い子どもだった。普通ならば誰も考えつかないことに挑み、当然のような顔でそれをやってのけた。そんな彼の何事にもとらわれない自由な個性は、間違いなく両親から受け継いだものである。ボーディの父親ウッディ・ミラーは深い森の中に手作りの山小舎を立て、そこで一家の生活を営むような男だった。若い頃の彼は、当時のアメリカを覆っていたヒッピー文化の空気を深く吸い込み、既成の価値観に反発し、自由と平和と革新を求めた。そしてやがて家庭を持つと、俗世界との交渉を断ち、自然の中で精神を解放するスピリチュアルな生活を実践したのだ。電気やガスは引かず、近くの清流から水を組んでくるという、まさに絵に描いたようなワイルドライフだった。子どもたちはほとんど学校にいかず、勉強は母親のジョー・ミラーが自ら教えるホームスクール。そんな幼年時代を過ごしたボディーが、人と少し変わった個性の持ち主となったのは、ごく自然なことといってよいだろう。
カービングスキー革命の先駆け
1996年、当時18歳の彼は、全米ジュニア選手権で目覚ましい活躍を見せた。ダウンヒル、スーパーG、ジャイアントスラロームの3種目で優勝。スラロームでも2位となった。特にGSとスーパーGでは、2位を2秒以上もぶっちぎる圧倒的な勝利だった。だが本当に驚くべきなのは、そのときボーディが使用していたスキー板である。彼は中央が深く絞られた変わった形状のスキー板を履いていたのだ。のちにカービングスキーといわれることになる独特のフォルムのスキー板は、この当時すでに世の中に登場はしていた。だがそれはあくまでリクリエーショナルモデルとしてであり、レースで使うことなどまだ誰も考えていなかった。したがってレース用のカービングスキーがあるはずもなく、このときボーディが使ったのも、一般スキーヤーを対象としたリクリエーショナル。モデルだった。そんな変わったスキー板で3秒もぶっちぎるボーディの滑りに、周囲はびっくりした。そして彼が実証してみせたカービングスキーの持つ可能性にも目をみはった。一般的に言えばレースの世界におけるカービングスキーの登場は、それからまだ数年後のことである。つまり無名のジュニアレーサーによるこの常識破りのチャレンジは、やがてスキー業界を大きく変えるカービングスキー革命の先駆けとなったわけである。

2002/03シーズン、ボディミラーはオールラウンダーとして、すべての種目へのエントリーを開始した。全種目をこなす選手は数こそ少ないものの、そう珍しいものではない。しかし彼はただ全種目に取り組むだけではなく、ワールドカップの全レースにスタートするという過激な戦い方を始めた。目指すところはもちろんワールドカップの総合優勝である。
もっとも、これは無謀な作戦に思われた。ワールドカップのレース数は年間約35。これに加えてダウンヒルのトレーニングランが15から20本も行なわれる。大陸間を行き来する転戦の中で、これだけのタイトなスケジュールをこなすのは、あまりに体力的な負担が大きすぎる。得点のチャンスは増えるだろうが、逆にタイトル争いには不利となるというのが、一般的な見方だった。
たとえば、このシーズンの総合チャンピオンとなったシュテファン・エベルハルターは、
「彼がもし本当に総合優勝を狙うのなら、ときにはレースを欠場することも必要だ」と助言したほどである。だが、ボーディは周囲のそうした声に一切耳を貸さなかった。それどころか、サンモリッツ世界選手権でも5種目の全レースに出場。さらにFISレースの前走にも顔を出して、周囲を呆れさせた。結局この年、彼はエベルハルターに次ぐ総合2位となった。タイトルこそ手にすることはできなかったが、その型破りの戦い方は、レースにおける玉砕覚悟のフルアタック同様、ファンの心をがっちりと捉えた。

2003/04シーズン、彼はまたまた突飛な行動に出て、人々を驚かせた。モーターホームに寝泊まりしながらワールドカップを転戦するというのだ。大型バスを改造し、快適な居住空間を作り上げ、そこで親友でもある料理人兼運転手と(ときにはガールフレンドも加わって)生活を共にする。ここでは自分だけのプライベートスペースが確保できるので、ホテルの狭い部屋に閉じ込められるよりも、はるかにリラックスしてレースに集中できるというのが、この前代未聞のアイディアの理由である。当初、多くの人たちは、
「アイディアは面白い。でも実際には疲れるだけだし、すぐにホテルへ戻ってくるだろう」と冷ややかに見ていた。しかし彼はそんな周囲の見方もどこ吹く風で、モーターホーム暮らしを楽しんだ。そして続く04/05シーズンも再びモーターホームでの転戦を続けた。すぐに懲りるどころか、すっかりこれが気に入ってしまったのだ。昨シーズンはチームメイトのダロン・ロールヴスも影響されモーターホームを導入。ときには互いの車を行ききし合って、快適なワールドカップ生活を送ったという。
ボーディならばやってくれる
04/05シーズン、ボーディ・ミラーはワールドカップが開幕すると同時に凄まじい勢いで勝ち続け、人々を唖然とさせた。まずGS第1戦で優勝。約1カ月を置いて行なわれた北米シリーズのダウンヒル第1戦とスーパーG第1戦で連勝した後、ダウンヒル第2戦でも買った。さらに舞台をヨーロッパに戻したGS第3戦で優勝し、2日後のスラローム第1戦でも優勝。この時点で1シーズンの間に4種目すべてで優勝するという史上ふたり目の記録を達成した。
「気分が良いときには何をやってもうまくいく。少し疲れているが、レースになると興奮するから問題はない。レースはせいぜい1分間の勝負だ。気持ちが高ぶっていれば、足腰が疲れていようと1分間くらいはどうにでもなるんだよ」と彼は語った。
ワールドカップ史上初めて同一シーズン4種目制覇の記録を達成したのは、1989年のマーク・ジラルデリである。最強のオールラウンダー、鉄人と言われたそのジラルデリでさえ、記録達成には開幕から22レースを必要とした。ボーディはわずか10レースでそれをやってのけたしまったのだ。それは実に驚くべきことだが、しかしその反面、ボーディならやりそうだと妙に納得できてしまう空気があるのもまた事実である。誰も思いつかなかった無謀な挑戦、突拍子もないユニークなアイディア、到底達成不可能と思えるような大記録。今や人々は、ボーディ・ミラーならそれはをやってのけても不思議じゃない、と思い始めている。「奴ならやってくれる」。ファンにそう信じさせ、その期待に間違いなく答えること。それこそがスポーツの世界におけるスーパースターの必要条件である。その意味で、彼は現在のワールドカップにおけるナンバーワンのスター選手といってよいだろう。しかもスーパースターにとって。もうひとつの重要な要素である人気という面でも、他のすべての選手を圧倒している。ただ強いだけでなく、ファンから愛される。実際、ボディミラーの人気は凄まじく、どこのレース会場に行っても、最も大きな声援を受けるのは彼である。数万人がコースサイドを埋め尽くすキッツビュールやシュラドミングでさえも、ファンの声援は地元のオーストリア選手ではなく、このアメリカ人により多く送られる。一見、無表情に思えるが、目の奥にはいつも優しい笑みを浮かべているし、無愛想のようでいて、一旦口を開くとその話は止めどなく続く。サインを求められれば、どんな時でも足を止めペンを走らせるサービス精神の持ち主でもある。そんなボーディ・ミラーのことを、誰もが大好きなのだ。たとえば04/05シーズンの開幕戦、セルデンのGSでは、レース終了後の長い時間、彼は大勢のファンに囲まれていた。表彰式が終わり、プレスセンターでの記者会見が終了してもファンは一向に帰ろうとしなかった。ボーディは、その人垣の中でいつまでもサインに応じていた。そこにはスポーツにおけるスター選手とファンとの理想的な関係があるように思えて印象的だった。

かすかに感じる微妙な違和感
04/05シーズン、ボーディ・ミラーはついに念願のワールドカップ総合優勝を果たした。全種目全レース出場という過激な戦い方を始めて3年目、モーターホームでの転戦2年目でつかんだビッグタイトルである。10レースで6勝を挙げた時点では、このままいけばシーズン20勝以上、それが無理だとしても、ヘルマン・マイヤーが持つ2,000点というワールドカップポイントの最高記録を破るのは確実と思われた。しかし、シーズンの半ば以降はさすがにペースが鈍化。ベンジャミン・ライヒが、じりじりと追い上げる中、終盤のスパートで辛うじて逃げ切りに成功した。
総合優勝の大クリストルトロフィーに加えてスーパーGの種目別優勝も手にしたボーディは、これで名実ともに偉大なチャンピオンとして歴史に名を連ねることとなった。アメリカ選手としては、1982/83シーズンに優勝したフィル・メーア以来、22年ぶりの総合チャンピオンである。

だが、チャンピオンの栄光を喜ぶ一方で、ボーディは妙な居心地の悪さを感じ始めているようだ。それはスターであることの違和感と言い換えてもいいかもしれない。
「今日は、良い1日だった。ヘルマン・マイヤー、ベンジャミン・ライヒ、ダロン・ロールヴス…。チャンピオンとなる力を持つ素晴らしい選手がたくさんいる中で総合優勝するだけでも、凄いことだ」
総合優勝を決めた日の記者会見で、ボーディはこう述べている。その一方で次のような浮かない発言もあった。
「総合優勝の意味? 今はわからない。個人的にはこれが弾みとなるのかどうかも、どこに弾んでいくかもわからない。すべては、今後数カ月どうなるかによるね。まあ、あまり楽しみに増していないんだが」
今シーズンの彼の発言には、これまでになくネガティブなニュアンスが色濃かった。
「有名人であることは僕の仕事じゃない。すべての人間は自分の仕事を選ぶ権利を持っていて、僕はスキーレーサーだ。こうしてインタビューに答えるのは僕の仕事ではない。これは有名人であることについてくる付随的なものだ」
「ファンのひとりひとりは素晴らしいよ。それがひとりならば、僕は彼のために何でもする。でも5,000人のファンが集まったら、何もできない。どこかに線を引かなくてはいけないんだ。だけど彼らは線を引いてほしくない。僕が線を引いても、それは押し返される。その繰り返しだからぼくはイラつくんだ」

これらの発言は、年々高まりつつある自分への賞賛と注目に、そろそろ応えきれなくなっていることを示している。常にフランクでオープンマインドな性格だからこそ、彼はここまでファンに愛されるようになった。しかし、はたと気がつくと、彼にはすでに自分では背負い切れないほどの期待が集中していたのだ。そしてその期待感がさらに加熱するであろう来年のトリノ五輪については、次のように語っている。
「もしも大衆に認知されたいというのなら、オリンピックは大切だ。特にアメリカでは一番大切だろう。だが、それは僕の目標ではない。世界で一番うまいスキーレーサーであることの証明ならば、すでにワールドカップで成し遂げたと思う。僕にとっては、オリンピックが象徴するものは大切だが、スポーツそしてオリンピックを知れば知るほど、主張しているものとは別のものに見えてくる。多くの事柄が、オリンピックに対する僕の気持ちを削いでいくんだ」
ボーディのファンにとっては、こうした発言も充分に衝撃的だろうが、さらに気がかりなのは、彼がワールドカップそのものにも懐疑的な見方をし始めているということである。彼は2月の初めに、いくつかの新聞に定期的に掲載している日記を通じて、FIS(国際スキー連盟)の体制について批判した。アルペンレーサーがプロフェッショナルスポーツの主役として正当に扱われていないと訴えたのだ。そのうえで、来シーズン以降、アメリカチームを脱退して、彼を中心としたプライベートチームを組織するか、あるいは全く新しいプロツアーを立ち上げる方策を探っていると発表した。選手にとって現状のFISの体制は満足できるものではなく、このスポーツの未来のためには、改革が急務だと主張するのだ。
「世界レベルのアスリートを生み出すのに、FISですがとった唯一の方法というのは、良いことではない。ほかのオプションも必要だ。それを現実にすることができるのならば、僕は努力を惜しまない。そのためには来年はレース活動しないこともあり得るだろう。スキーは今でも大好きだが、ほかのオプションを試してみたいとも思う。ことは必ず起きるはずだし、だとしたらことを起こす人物は僕でありたい」
オプションとは、すなわちまったく新しいプロツアーのことだろうが、水面下では既に他の選手たちやスポンサーとそれについての話を進めているとも言う。その口調や表情を見る限り、決して冗談や思いつきで言っているのではなさそうだ。しかし、過去にもFIS及びワールドカップに反旗を翻そうとした事例はいくつかあるが、それらの計画は、ことごとく失敗に終わっている。様々な矛盾や問題点をはらみながら、しかしFISワールドカップは30余年の歴史を持つ、成熟した大会である。それを切り崩し、あるいは切り崩さないまでも肩を並べるシステムを作ることは、そう簡単ではないだろう。まして現役の選手である彼が、その中心になることは自らの選手生命に影響しかねない。今度ばかりは、「ボーディならば、やってくれるだろう」と、気軽に言うことはできないのだ。
現時点で、この件に関する情報は何も明らかにされていない。計画は着々と進んでいるのか、あるいはすでに頓挫しているのか? 確かなのは、USチームが先月発表したオリンピックシーズンのメンバーの中に、当然のようにボーディー・ミラーの名前があるということだけである。