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 現在のアルペンスキー・ワールドカップにおける最大のスター選手は、間違いなくボーディー・ミラーだ。オーストリアにはカリスマ的なレーサー、ヘルマン・マイヤーがいるし、スイスにはディディエ・クーシュという人気者がいる。そしてイヴィッツァ・コスタリッチは、今やクロアチアの国民的英雄だ。だが国を越えたグローバルな人気を持ち、その滑りがファンの心を大きく震わせるという点で、ボーディを超える選手は見当たらない。もし彼がいなくなったとしたら、ワールドカップはずいぶんとつまらないものになってしまうだろう。多分に個人的心情を交えて言えば、彼のいないワールドカップは、その魅力が半減するのではないか。アルペンシーンにおけるボーディ・ミラーとは、それくらい大きな存在であると私は思う。

 そんな彼に関して、昨シーズン、印象的なシーンがふたつあった。ひとつはワールドカップのウェンゲン大会(スイス)でのことである。この大会では毎年、村でただひとつの小学校の校舎がプレスセンターにあてられる。地下の体育館が記者たちのワークルームとなり、2部屋ぶち抜いた最上階の教室は、上位入賞者による共同記者会見の会場だ。もちろん大会期間中は、授業もお休み。したがって校内に生徒の姿はないが、教室や廊下のたたずまいからは、子供たちが元気に飛び回る日常の学校生活を感じることができる。

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 たとえば、記者会見場へと通じる階段脇の壁には、子供たちの作品が所狭しと展示されている。その一角に低学年の子供達が描いた絵が飾られたコーナーがあり、これがとても興味深かった。テーマは(たぶん)「今年のラウバーホルン大会ダウンヒルの予想図」。子供たちが思い描くレース展開が、大きめの画用紙いっぱいに描かれているのだ。今年のダウンヒルは、こうなるだろう、あるいはこういう結果になってほしい。そんな幼い思いがこめられた素朴な絵の数々。丁寧に書き込んだものもあれば、そうでないものもある。どこの小学校でも見られるような、ごく日常的な光景である。

 だがひとつひとつの絵を見ていくと、意外な事実に気がつく。ボーディが優勝するシーンを描いた絵が、飛び抜けて多いのだ。もちろんクーシュやダニエル・アルブレヒトといった地元スイスの選手も応援する。だけど彼らは2位や3位でいいから、表彰台の真ん中にはボーディに立ってほしい。そんな願いが込められた絵が数多く飾られていたのだ。スイスには、とひとくくりにするのは乱暴ならば、少なくともウェンゲンには、そう願う子供たちが数多くいる。ボーディは、かくも人々から愛されているのだ。伝統のラウバーホルン大会の会場として、古くからワールドカップが人々の生活に溶け込んでいたウェンゲンならではの現象なのかもしれないが、とにかくそれは少し意外で、と同時になるほどと思わせる、印象的な光景ではあった。

 

 

FISとの軋轢で意欲を喪失?

 このように絶大な人気を誇るボーディだが、シーズンの後半、彼はまったく予想外の行動をとった。2月に行なわれたヴァル・ディゼール世界選手権(フランス)の終了後、突然ワールドカップを離れ、アメリカに帰ってしまったのである。目的はもうすぐ1歳となる娘デイシーの誕生日を共に祝うこと。一部の関係者は既に知っていたのだが、公式には、彼はこのとき初めて自分が父親になったことを発表した。母親はNFL(アメリカのナショナル・フットボール・リーグ)サンディエゴ・チャージャースのチアリーダーである。ボーディはそのまま休養に入り、ヨーロッパに戻ることはなかった。そのため、世界選手権後に行なわれたすべてのワールドカップを欠場。逆転の可能性を残していたダウンヒルの種目別争いからも、自ら降りる形となった。

 

 ボーディをめぐるふたつ目の印象的なシーンは、結果的に彼にとって昨シーズン最後のレースとなった、世界選手権のスラロームでのことである。コース条件が極端に難しく、多くの優勝候補が次々と消えていったこのレースで、彼もまた大きなミスを犯した。中間計時地点を25位のタイムで通過した後、体勢を大きく崩してコースアウト。もともと完走率の低い彼のこと、これ自体は特に珍しいことではない。だがその後に彼がとった行動は、周囲を唖然とさせた。途中棄権した後、スキートをつけたままコース脇に座り込み、携帯電話を取り出したのだ。そして何やら夢中でメールを打ち始めた。もちろんまだ競技は終わっていない。後続の選手が次々と滑っていくコースのすぐ脇で、彼は、せわしなく指を動かし、一心不乱にキーを押し続けていた。その間、15分ほどだっただろうか、レースにはもはや全くの無関心。それは世界選手権の緊張した空気とはかけ離れた、あまりにも突飛な行動であった。日ごろから、人を食ったような言動と、独特のとぼけた天然風味が特徴のボーディだが、さすがにこれは意図的な振る舞いだったと理解するべきだろう。

メールを打つことが、このときの彼にとって、それほど重要だったとは思えない。むしろレースコースのすぐ脇でスキーとはまったく無関係の行動とってみせる、ということの方がより重要だったのではないか。もっと直接的に言えば、もうこの世界から離れる、つまり引退する覚悟ができていると示すこと。一見突拍子もないこの行動の裏には、そんな重大な意味が隠されていたように思う。

 

 娘の誕生日を共に過ごすというのは、彼がアメリカに向かった目的ではあったが、しかしワールドカップを去ろうとする決定的な理由ではない。実際のところ、彼はワールドカップに倦んでいた。FIS (国際スキー連盟)という巨大な組織が統括し、厳格なルールのもとに運営されるワールドカップの持つ、ある種の堅苦しさに、飽き飽きしていたのである。
「引退について最初に考えたのは、2005年に初めて総合優勝した時だ」と彼は言う。もちろんレースは好きだが、怪我をして選手生命を失うリスクを冒してまで頑張るというのは、現在の彼にとってエキサイティングなことではなくなりつつあると付け加える。
「ワールドカップで勝つには、精神的にも肉体的にも負担が大きすぎる。何の不安もためらいもなく、レースに挑んでいたのは、いったいいつ頃までだったのだろう」

 

 過激なスキースタイルゆえ、彼は怪我が絶えなかった。長期にわたって欠場するほどの大怪我こそなかったが、いつも身体のどこかに故障を抱え、それでもレースを続けてきた。昨シーズンも、開幕早々に足首を負傷。激しい痛みを騙し騙しのレースが続いた。そんな中、彼は2度にわたってFISからペナルティーを受けている。年末最後のレース、ボルミオ(イタリア)のダウンヒルでは、ビブドローを欠席。前日のトレーニングで負傷した手首の治療を受けるためだったのだが、そうした事情は斟酌されず、46番という不利なスタート順を割り当てられた。続くザグレブ(クロアチア)のスラロームでは、足首の痛みを軽減するため、少し柔らかめの新しいブーツを履いた。ところが、ゴール後のチェックで、ブーツの高さが規定値を超えていることが判明。わずか0.2ミリのオーバーだったが、一発で失格となっている。

 

 レース以外でのこうしたトラブルは、彼にとって大きなストレスとなっていた。ルールとは言え、けがに苦しみながら戦う選手に対しては、もう少し弾力的な対応があってしかるべきだと、彼は主張するのだ。
「これまで8年間にわたって数百回のビブドローに参加したが、欠席や遅刻はたったの2回だけだ。レースからレースへと転戦しているオールラウンダーにとって、まして怪我の痛みをこらえながら戦っている選手にとっては、ドローへの出席は大きな負担となる。FISにとって、アスリートがドローに出席するのは、テレビなどへのパブリシティーとして重要なのだろう。しかし、一律にルールを適用するのではなく、個々の選手の事情を考え柔軟に対応してくれてもいいではないか」

 しかし、FISが態度を変えることはなく、逆にジャン・フランコ・キャスパー会長は、ボディのドロー欠席を強く非難するコメントを出した。こうした一連の騒動は、ボーディのレースに対するモチベーションを決定的に破壊した。我慢に我慢を重ねて戦ってきた彼の緊張はプッツリと音を立てて切れた。そう考えればコース上での携帯メールという行為は、精一杯の反抗の構図だったと見ることもできるのだ。
 残念ながら、ファンにとっては大変気がかりなコメントを紹介しなければならない。彼は欠場した最終戦について次のように語っている。
「最終戦にはあまり興味がなかった。自分でも驚いたのだが、最終戦を観客として傍観したことに、何の違和感も感じなかった。そこにいないことを寂しいと感じなかったのだ。私はワールドカップで長いこと戦ってきたし、もう充分だと思う」

 

だが、ボーディ・ミラーはまだ正式に引退を発表したわけではない。
「2009/10シーズンに関しては、まだ何も決めていない」というのが最新のコメントだ。この他に現時点で明らかになっている事実は、以下の通り。
○ヘッド社との用具使用契約は2011/12シーズンまで有効である。
○2人のコーチとの契約はすべて解除し、新しいコーチとはまだ誰とも契約していない。
○夏の雪上トレーニングはほとんど行なっていない。
○12月22日にイタリアのドロミテで行われるエキジビションレースには出場することが決定。
○娘のデイシーは順調に成長し、いくつかの言葉をしゃべり始めている。

 

 率直に言って、2009/10シーズンのワールドカップに彼が参加する可能性は決して高いとは言えないだろう。ワールドカップ通算31勝、総合優勝2回のオールラウンダー、ボーディ・ミラー。獰猛でたくましかったその翼は、もうほとんど折れかけている。果たしてワールドカップは、最大のスター選手をこのまま失ってしまうのか?
ファンにとっては、シーズンの開幕まで落ち着かない日々が続くことだろう。

 

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