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09/10シーズンの湯浅直樹は、
まったく異なるふたつの姿を見せた。
バンクーバー五輪の選考がかかったシーズン前半には、
まるで金縛りにあったようなガチガチの滑りを
そして選考が終わったシーズン後半には、
すべての重圧から吹っ切れたような快進撃を。
彼のスキー人生の中で、初めて自分を見失ったというこの冬を中心に、
次代のエースの過去から未来を俯瞰する。
 
月刊スキージャーナル2010年10月号の記事を再構成したものです。

今から4年前、2006年に行なわれたトリノ五輪で、日本のアルペン界は過去最高の成績を収めた。皆川賢太郎が銅メダルまであと100分の3秒差に迫る4位に入賞。さらに湯浅直樹も7位に食い込むという大健闘を見せたのだ。残念ながら佐々木明は2本目にコースアウトしてしまったが、エースが倒れてもなお、入賞圏内にふたりの選手を送り込んだという事実は、このときの日本チームがいかに充実した力を持っていたかを物語っている。

 

第1シードで滑った皆川の4位ももちろんだが、この時点ではワールドカップでの入賞経験もごくわずか、熱心なファン以外にはほとんど名前も知られていなかった湯浅の7位入賞は、とりわけ人々に鮮烈な印象を与えた。その予想外の健闘はおおいに称賛され、彼がワールドカップの表彰台に立つのも時間の問題だろうと期待がふくらんだ。当時まだ22歳。若さと勢いにあふれ、徹底して直線的に攻めるアグレッシブな滑りを武器とする湯浅の未来は、このとき明るく光り輝いているように見えた。

トリノ五輪のスラローム1本目。39番スタートから17位の好位置につけた

7位という順位は、湯浅本人にとっても満足できる成績のはずであった。39番という遅いスタート順から1本目で17位の好位置につけ、2本目は捨て身のアタックで、さらに10人を飛び越えたのだ。初めて出場したオリンピックの大舞台。予想外の一桁順位が嬉しくなかったわけはない。だが、そんな喜びも、優勝したベンジャミン・ライヒの滑りを目の当たりにして、粉々に打ち砕かれてしまった。あまりの圧倒的な速さに、湯浅は自分の未熟さを思い知り、ただただ呆然とするばかりだったのだ。ライヒと湯浅のタイム差は、2本合計で1秒43だった。だが、彼が衝撃を受けた理由は、その数字そのものにあるのではない。ライヒの滑り、とくに優勝のかかった2本目の滑りが、とてつもなく正確でスムーズでゆったりとしていたからだ。どこにも無理がなく、失敗の気配をまったく感じさせずにいて、しかしすばらしく速い。2006年の時点における、スラローム技術の究極の到達点を示すような完成された滑りだった。

「自分はあんなにごりごり攻めたのにもかかわらず、あんなにゆったり滑ってきたライヒに負けてしまった。これまで築いてきた自分の滑りはいったいなんだったのだろう、すべてを否定されるようなとてつもないショックを受けた」。後のインタビューで彼はこう語っている。

7位という順位に対する満足感と、ライヒとの実力差に対する危機感とをはかりにかけると、湯浅にとっては後者の方が圧倒的に重かった。このままでは駄目だ。自分の滑りを根本から変えない限り、明るい未来がくることはない。そんな焦りにも似た危機感が日を追って強くなり、彼はいてもたってもいられなくなったという。

 

3つのメダルはオーストリアが独占。なかでもベンジャミン・ライヒの安定した滑りが光った

一般的に考えて、こうした彼の心の動きはなかなか理解し難い。たしかにライヒは強かった。しかし湯浅だって初めての大舞台でいきなり7位の好成績。しかも2本目は全体で3位に相当するタイムを記録しているのだ。充分に誇るべき数字ではないのか? そして、これをベースに成長を重ねて行けば、勝利はそう遠くない日にやってくると考えるのが普通ではないのだろうか? しかし湯浅は、それまでの滑りをすべて捨て去る決意を固めていた。
「自分にとって、トリノ五輪の7位は何の意味もなかった。むしろ今後のことを考えれば消し去ってしまいたいくらいの事実だ」とまで口にするようになった彼は、シーズン終了後、すぐさま滑りの大改造に着手した。

いったい何が彼をそうさせたのか? それを理解するには、時計の針を15年ほど前に戻す必要があるだろう。

トンバに憧れた少年時代

湯浅直樹がスキーに夢中になり始めたのは、8歳の頃だった。それまでにも年に2、3回、家族でスキーを楽しんではいたのだが、スポーツとしてのスキーの魅力に気がついたのは、小学校3年生の冬だった。北海道に生まれ育った子供のなかでは、けっして早い方ではない。後に世界の舞台で戦うほどのレーサーとしては、むしろ遅いスタートといってよいだろう。だが「SSプロダクツ」というスキー小年団に入り、練習に明け暮れるようになると、すぐに彼は非凡な才能を見せるようになる。生まれて初めて出場したスラロームで、2位に5秒もの大差をつけて優勝してしまったのだ。身体は大きくはないが、運動能力はずば抜けていた。とくに足腰のばねの強さは、誰にも負けない自信があった。そんな天賦の才能はスキー以外のスポーツでも存分に発揮された。サッカーでは札幌市の選抜 チームに選ばれるほどだったし、陸上の高跳びでは小学校5年ですでに145㌢を跳んでいた。だが、少年時代の彼をもっとも熱中させたスポーツは、やはりスキーだった。

 

「SSプロダクツ」の練習は、週に4日。専用の送迎バスに乗ってテイネハイランドに通った。練習はとても自由な雰囲気で行なわれ、ポールは立っているものの、別にそこを滑らなくても怒られることはなかった。もっとも、湯浅自身はとにかく滑ることが大好きだったので、毎日ひたすら滑りまくった。怒られるとしたら滑りすぎて集合時間に遅れてしまうときくらいのものだった。

 

練習のないときには監督の佐藤昭治氏の家に遊び行き、ワールドカップのビデオを見せてもらうのが彼の楽しみだった。当時はアルベルト・トンバの全盛時代。画面のなかでは、いつもトンバが表彰台にあがってファンの喝采を浴びていた。当然のように彼もトンバのファンとなり、いつか彼のような強い選手になろうと決意した。当時の雪国の子供たちの多くは、湯浅同様、トンバに憧れの気持ちを抱いたことだろう。だが、彼が他の子供たちと決定的に違ったのは、その憧れの思いが桁外れに強かったことである。

「彼のようになりたい」という漠然とした願いではなく、「絶対にトンバのように強くなる」という強い決意だった。

今となっては、何でそれほど思い込んだのか説明のしようがない、と湯浅自身はいうが、それはほとんど“神の啓示”というべきレベルの魂の覚醒であった。
 

たしかに当時、1990年代初頭のアルベルト・トンバは、神懸かり的な強さを持つレーサーだった。単に速いというだけでなく、見るものの心にある種の感動を呼び起こし、魂を震わせるような特別な存在だった。小学生だった湯浅が、どこまでそれを感じ取っていたのかは知る由もないが、トンバという偉大な選手に触発され、世界をめざすようになったのは、まぎれもない事実である。

 

彼がめざしたのは、単なるウィナーではなかった。1度や2度ワールドカップで勝つのではなく、シーズンを通して他を圧倒するようなチャンピオンとなることを心に誓ったのである。

「いつか絶対に世界一になってやる、8歳のときにそう決意して以来、一度たりとも気持ちが揺らいだことはない。それに関しては何ひとつ疑問も持たなかったし、なれなかったらどうしようと、不安に思うこともなかった。僕にとって息をするのと同じくらい当然のこと。極端にいえば、そのためだけに生きてきたようなものだ」。

ワールドカップ初入賞は2004年12月。セストリエールのナイトレースで21位となった

そんな壮大な目標を達成するために、湯浅はひたすら練習に打ち込んだ。滑りは不器用で、お世辞にも安定しているとは言えなかったが、瞬間的なスピードには目を見張るものがあった。だが、あまりに直線的に突っ込む彼の滑りは、必然的に完走率が低く、なかなかゴールまでもたない。周囲には後に全国レベルの大会で活躍する優秀な選手が数多くいたこともあり、大会での成績はあまりぱっとしなかった。

 

しかし、彼にとって、目先の成績はどうでもいいことだった。いつか世界一となるために、今は完走とかポイントよりも、スピードに磨きをかけることが大切だと考えていたからだ。どんなレースでも、狙うのは優勝のみ。そこそこのタイムで完走するくらいならば、徹底的にアタックして玉砕する方がまし、という鉄砲玉のようなレースを、彼は繰り返していた。 

 

中学に進んでも、彼の滑りはいつも不安定だった。あいかわらず失敗を繰り返し、悔しくて涙を流したことも一度や2度ではない。だがそれでも次のレースでは無謀なアタックに出て、やっぱりまた雪にまみれるのだった。その頃の彼は、あるメーカーから用具の提供を受けていた。だが、失敗ばかりで満足な成績を残せなかったために、中2のシーズンが終了するとサポートを打ち切られてしまった。

ハートチームを率いる大高弘昭監督。湯浅が誰よりも信頼する人物だ

そんなとき、SSプロダクツのコーチを介して紹介されたのが、ハートチームのヘッドコーチ、大高弘昭である。大高は80年代のワールドカップや世界選手権で活躍。引退後もヤマハチームの監督として世界を舞台に戦ってきた人物である。

 

彼が率いたヤマハチームでは、フィン・クリスチャン・ヤッゲ(ノル ウェー)がアルベールヴィル五輪の男子スラロームで優勝。日本製スキーにとって初の五輪メダル獲得という快挙の原動力となった。しかし長野五輪を翌年に控えた1997年、ヤマハはスキー事業から撤退。同社を退社した大高は、(株)ジャパーナが手がけるハートスキーで、ふたたびファクトリーチームを立ち上げた。湯浅が大高の元を訪ねたのは、ちょうどこの頃のことである。

 

初めて会った日のことを湯浅は次のように振り返る。

「うちのスキーをはきたいのならば、一度滑りに来てみろ」と言われ、学校を休んでハートチームのトレーニングに参加した。大高さんは僕の滑りを見るなり『お前、へったくそだなぁ』と言った。ああこれは不合格ということなんだなと覚悟したが、『他に何かスポーツをやっているのか』も聞かれたので『はい、高跳びをやっていて、186㌢を跳んだことがあります』と答えた。すると大高さんは、表情も変えずに『そうか。じゃあ今日からうちのスキーをはいてくれ』と言ってくれた。経済的に余裕のある家庭ではなかったので、これで何とかスキーが続けられるとほっとしたことを覚えている」。 

一方大高は、

「滑りの第一印象ははひどいものだった。内倒はするし、身体は遅れるし、要は基本がまったくできていなかった。でも、身体にはばねがあって、運動能力はものすごく高そうだったので、そこに期待してチームに入れることにした。驚いたのは初めてヨーロッパに連れて行ったときのこと。氷河のカチカチのアイスバーンを滑らせたら、硬い雪をまったく苦にせずにバラバラになりながらもターンを切ってきた。なかなか根性のある滑りで、そのときにこいつは将来世界で戦えると確信した」と中学時代の湯浅に関する思い出を語っている。
 

16歳でナショナルチームのジュニアに入り、2年後にはシニアのCチームに昇格。相変わらず完走率は低かったが、うまくはまったときの速さは、彼の大きな武器であった。コーチたちは、彼のその魅力を認めながらも、

「アタックするのもいいが、もう少し落ち着いて滑れ」といってレースに送り出すのが常だった。湯浅も一応はそうしたアドバイスに耳を傾けるのだが、いざスタートしてしまうと、自分のやり方を押し通した。もともと性格的に頑固だったし、そもそも抑えて滑ると、かえって滑りはばらばらになってしまったからだ。

 

こうして「ひたすらまっすぐ突っ込んで行ってたまたまゴールすれば速い」というスタイルが確立された。彼のスラロームは、荒削りながらも、次第に結果を残すようになっていた。04年の12月、セストリエールのスラロームでワールドカップ初入賞。翌シーズンのクラニスカ・ゴーラでは、2本目のベストタイムをマークするという素晴らしい滑りで7位となった。そして迎えたトリノ五輪で再び7位入賞。このときの2本目は、湯浅一流のアクロバチックでリスキーなスラロームの完成型でもあったのだ。 

だが、前述したように、ベンジャミン・ライヒの芸術的に美しくしかも圧倒的に速いスラロームに衝撃を受け、特攻型のスラロームの限界を悟った。自分のスタイルを崩すのには抵抗もあったし、滑りの改造には多くの困難が予想された。しかし彼には、少年時代からの揺るぎない目標があった。世界一速いスラローマーとなるというその目標を実現するためなら、どんな困難にも立ち向かう覚悟があったのだ。

2006年のクラニスカ・ゴーラ。2本目のベストタイムをマークして7位入賞。

初めての一桁入賞を記録した

トリノ五輪以降の4年間を、湯浅は自分の滑りをいったんばらばらに壊し、それをふたたび丁寧に組み立てるという作業に当てた。それは予想をはるかに上回って困難なことだった。時には、壊しすぎて途方に暮れたこともあったが、それでもあちこちに頭をぶつけ、ときにははるか遠回りをしながら、少しずつ前進した。

 

トリノ五輪のシーズンまで、彼はヘルメットに『死攻』という文字のステッカーを貼っていた。死守ではなく死攻。

「たとえ死んでもなお、攻めのスキーを貫き通す」という決意を込めた彼の造語で、親しい友人が文字をデザインしてステッカーを作ってくれたのだという。だが、滑りを改造するにあたっては、このステッカーもはがすことにした。滑りを変えることそれ自体は、もっぱら技術的なことだが、それを可能にするのは、気持ちの面を含めた意識改革が必要だと考えたからだ。不運にもいくつかの怪我が重なり、停滞のシーズンが続いた。一時は第1シードに手が届きそうなところまで上がったランキングも、その後急降下。多少の混 乱は覚悟していたとはいえ、不本意なレースを続けることは、彼にとってつらいことだった。それでも、彼は根気よく自分の滑りを再構築して行った。はたから見ると、それほど劇的に変わっているわけではない。見る人が見なければ、それとはわからないだろう。直線的すぎたラインをすこし滑らかにし、すぐに後傾しがちだったポジションを前に保つように意識した。スタート前に入れ込みすぎることがないようにも気を配り、レースの組み立てを考えるようにした。結果的には、これまでいつもコーチたちから言われてきた「落ち着いて攻めろ」というアドバイスを実践できるようになっていた。

初めてのワールドカップ表彰式で“死攻”のヘルメットを掲げる湯浅

09/10シーズンは、バンクーバー五輪の行なわれるオリンピック・イヤーだった。トリノでの悔しい思いから4年。ようやく巡ってきた雪辱の機会に、彼はすべてをぶつけることを決意した。男子だけでも5人が出場したトリノ大会とは違い、バンクーバー五輪で日本に与えられた男子の出場枠はふたつしかなかった。FIS(国際スキー連盟)が、アルペン競技の出場選手総数を厳しく絞ったために、各国に割り当てられる枠も減らされたからである。佐々木明、皆川賢太郎と湯浅直樹。Aチームにランクされる3人が2枚しかない五輪行きチケットを争うことになった。 

 

この初めての経験に、湯浅はとまどい、戦略的に大きなミスを犯してしまった。無意識のうちに守りの滑りをするようになっていたのだ。チーム内の取り決めで、選考はウェンゲンのスラローム第5戦までに獲得したワールドカップポイントを基準とすることになっていた。だから、どうしてもポイントをほしがってしまったのだ。

湯浅はこれを「置きにいくレースをしてしまった」と表現した。“置きに行く”とは、ストライクの入らなくなったピッチャー、あるいは打者との対決にびびってしまったピッチャーが、スピードもキレもない中途半端なボールをストライクコースに投げ込むことで、いずれにしても戦う前から精神的に追い込まれた選手が陥りやすい行為だ。

 

「これまでの人生のなかで、ポイントをとりたいと思って滑ったレースはひとつもなかったのに、一番大事なときに、それをやってしまった。自分の長所はすべて消え、短所ばかりが滑りに出てしまう。完走してもタイムは伸びず、これではいかんと攻めてみると、今度はあっという間にポールをまたぐ片反の罠にはまった」。

文字通りの悪循環。3人のなかでは佐々木が最初に代表の座に王手をかけ、最後の選考レースとなったウェンゲンでは、皆川と湯浅の一騎討ちとなった。皆川もけっして調子が上がっていたわけではないが、まるで金縛りにあったような滑りに終始した湯浅は、皆川よりもさらに低調だった。結局皆川が20位で湯浅は25位。この段階で、バンクーバー五輪への道は閉ざされてしまったのだ。 

 

失望は大きかった。あまりの絶望感から、自らのブログで現役引退をほのめかす文章を掲載したほどである。だが、そこから立ち直るのもまた早かった。ウェンゲンの後、彼はヨーロッパカップに出場するためブルガリアのバンスコに向かい、そこで2連勝を記録。五輪への代表選考という呪縛が解けた瞬間、彼はまるで魔法からさめるように本来の自分を取り戻すことができたのだ。

「これから自分は何をしなければならないのか、正解が見えた。それは原点に返ること。寝ても覚めても世界一になることを夢見ていた少年時代の気持ちをと取り戻すことだった。世界一になるためにいっさいの甘えを捨て、全身全霊でスキーに立ち向かわければならないし、少しの迷いもあってはならない」と湯浅は言った。

 

成績は一気に上向き、キッツビューエルで15位、シュラドミングでは8位にまで順位を上げた。遅すぎる復調だったが、本当の自分の姿を確認できたことは、彼にとって大きな喜びだった。もはや何の迷いもなく、レースに立ち向かえた。スタート台に立つのが楽しくて仕方がなかった。コースに魂をぶつけるようにしてアタックするのが、たまらない快感であった。この感覚をもとめてスキーをやっていたはずなのに、この数ヶ月、いったいどこでそれを見失ってしまったのだろう。そう考えると、湯浅は自分自身が不思議で仕方がなかった。

バンクーバー五輪の選考がかかった最後のレース。

湯浅は25位に終わり2度目のオリンピック出場はかなわなかった

バンクーバー五輪の男子スラロームの日、どこで何をしていたのか? そう尋ねると、湯浅はしばらくの間、黙り込んだ。質問に対して、ほとんど間髪を入れずに答を返してくるのが湯浅だ。言葉を選んだり、曖昧に飲み込んだりせず、まっすぐで瞬発力のある受け答えをするのが彼の特徴なのだ。だが、この時ばかりは様子がちがった。時間にすれば10秒程度だったが、彼はじっと何かを考え、その後にようやく口を開いた。

「正直にいうと、五輪マークを見ただけで腹が立った。だから絶対にテレビは見ないでおこうと思っていた。でも、その日が来るとやはり見ずにはいられなかった。しっかり目を開けて自分の出ていないオリンピックを見届けなくてはいけないと思い直したからだ。シーズンのはじめに、僕が自分を見失わなければ、今このテレビの画面のなかにいたはず。それなのに、実際にはこちら側に座っている。そんな自分自身を呪って、祟って、次のソチ・オリンピックまでの4年間を苦しんで生きて行こう、と決意しながらテレビを見ていた」。 

 

その4年間は、すでにスタートしている。5月には、ハートチームとサロモンチームが合同で、やく20日間のヨーロッパ遠征を行なった。トレーニングには、湯浅の他に佐々木と石井智也が参加した。さらにゲオルグ・ヘルリゲルにかわって新たにコーチに就任したばかりのクリスチャン・ライトナーも顔を揃えた。ライトナーは、この春までの13年間フィンランドチームのヘッドコーチをつとめて来たオーストリア人。かつて弱小チームだったフィンランドを強国の一 角に押し上げ、カレ・パランダーやサミ・ウォティラらのトップレーサーを育て上げた。この世界の名コーチという話題になったときに、決まって名前の上がる人物でもある。

 

そのライトナーは、合宿の初日、湯浅に対してこう語りかけた。

「お前は俺のことを知らないだろうが、俺はお前のことをよく知っている。以前から注目してみていたし、前任者からもいろいろ話を聞いていたからだ。だからお前が優秀なレーサーであることはわ かっているが、しかしまだまだ足りないところも多い。それをこれからの4年ですべて教えるから、一緒に頑張って取り組んで行こう」。

2010年春にチーフコーチに就任したクリスチャン・ライトナー

ライトナーのこの言葉に、湯浅は大きな期待感を持つことができたという。その指導法も的確で独創的。ひとつひとつのアドバイスに説得力があるので、すんなりと受け入れられると湯浅は言う。前任者とは必ずしもよい関係を築けなかった彼にとって、新コーチの存在は大きな力となることだろう。

「たとえばGSのトレーニングでは、ポールに当たることを禁じられた。ポールの1m外側を通れと言われ、ラインを徹底的に考えさせられた。これを言われたのは僕だけで、つまり湯浅をどうやって強くするかというプランが明確に彼のなかにあるということ。これは、選手としては嬉しいことで、信頼関係と言うのは、こういうことから作られていくのだと思う」

 

来年は、バンスコで初のワールドカップが行なわれる。ヨーロッパカップ2連勝の湯浅にとっては、大きなアドバンテージとなるはずだ。また、それと前後してガルミッシュ・パルテンキルヘンでは世界選手権も開催。同地で行なわれた09/10シーズン最終戦で、湯浅は中間計時を7位で通過するという素晴らしい滑りを見せている。不運にもその直後にポールをまたいで途中棄権しているが、その滑りは非常に質の高いものだった。急いでいないのにスピードは速く、攻撃的なのに安定しているという、この4年間彼が追い求めてきた理想像がはっきりとうかがわれる滑りだった。この滑りを完成させれば、高いレベルで戦えるに違いない。 

 

オリンピック落選という大きな代償を払った湯浅だが、屈辱的な苦しみを乗り越え、彼は確実に成長したはずだ。来シーズンの湯浅直樹には、相当強い追い風が吹くことだろう。

ガルミッシュ・パルテンキルヘンで行なわれたワールドカップ最終戦。

2本目の中盤すぎまですばらしい滑りだった