
月刊スキージャーナル2010年5月号の記事を再構成したものです。
ドイツのエース、フェリックス・ノイロイターには、小さな悩みがある。彼のことを「フェリックス」とではなく、ついつい「クリスチャン」と呼んでしまう人が、あまりに多いからだ。子供の頃からそんなことを何度となく経験し、最近ではワールドカップの記者会見に呼ばれたあげく、司会者から「クリスチャン・ノイロイターに大きな拍手を!」などとやられたこともある。他人の失敗には比較的寛容な彼も、このときにはさすがに頭に来たのだろう
「これからは、僕のことをロジと呼んでくれ!」と大声で叫んだほどである。
このエピソードを読んで笑える人は、おそらく40代以上のスキーファンだろう。クリスチャンとは彼の父親、そしてロジは母親の名前。フェリックス・ノイロイターは、インスブルック五輪(76年)の2冠王、ロジ・ミッターマイヤーと、ドイツのアルペン史上に輝くスター、クリスチャン・ノイロイターの間に生まれた長男なのである。
偉大な選手の子供の多くがそうであるように、フェリックスも豊かな才能に恵まれ、小さな頃から大きな注目を浴びて育った。当然のようにアルペンレーサーとなり、当然のようにワールドカップの舞台に駆け上がっていった。さらに22歳で早くもワールドカップの表彰台に上り、以来、いつ優勝してもおかしくない位置に立ち続けてきた。しかし、そこからさらに一歩進むのには、予想外の時間がかかった。しばしば1本目で好位置につけるのだが、2本目に自滅。そんなレースを何度も経験するうちに、彼は次第に自信を失っていったのである。
「問題はいつも2本目だった。知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけ、それを払いのけるために思いきり滑ろうとすると、力が入りすぎて自分を見失ってしまった」
名門の家に生まれたがゆえの期待と重圧。周囲からの熱すぎる視線を、彼は持て余し気味だったのだ。
そんな失敗を繰り返す彼に対して、地元ドイツのメディアは手厳しかった。なかには、偉大な両親の強さをことさら持ち出しては、翻ってフェリックスの精神的弱さを指摘するベテラン記者もいた。
しかし、第70回キッツビュール・ハーネンカム大会のスラロームにおいて、フェリックスはようやくそうした呪縛から抜け出すことができた。1本目で3位につけ、2本目でも快走し逆転優勝。この日、押し寄せる重圧から自滅していったのは、彼ではなく1本目でトップに立っていた地元オーストリアのエース、ラインフリート・ヘルブストの方だった。
「2本目は意識してリラックスして滑った。これまでは力が入りすぎていたが、今日はやっとスマートなレース運びができたと思う」記者会見での彼は、勝因についてこう笑顔で語った。
父、クリスチャン・ノイロイターは1979年、キッツビュールのスラロームで優勝している。彼のキャリアの中で通算6度目、そして結局これが最後となる優勝だった。それから31年後、息子フェリックス・ノイロイターが初めてのワールドカップ優勝を、この同じコースで記録したのである。
この日、会見席の最前列にはドイツのベテラン記者たちがずらりと顔を揃えていた。誰もが笑顔だった。高い実力がありながら、それをなかなか勝利に結びつけることのできなかったノイロイターをときに厳しく叱咤し、ときに優しく応援してきた彼らにとって、ノイロイター家親子2代にわたる活躍を伝えることは、 至福の喜びだったに違いない。