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2011/12シーズンの男子ワールドカップ総合優勝のタイトルは、
マルセル・ヒルシャーが獲得した。
ライバルたちとの激しい競り合いのなかから、ラスト2レースで
抜け出すというきわどい勝利。
そこで見せた素晴らしい集中力は、アルペン最強国オーストリアの
エースの座を継ぐのにふさわしいものだった。
23歳となったばかりの新チャンピオンの
しなやかでしたたかな戦いを振り返る。

 

(月刊スキージャーナル2012年6月号の掲載記事を再構成したものです)
 

 

 2012年3月18日の夕方、今シーズンのすべての競技が終了したシュラドミングのプレスセンターで、男女の総合優勝者を迎えての記者会見が行なわれた。冒頭、表彰式で大クリスタルグローブ(総合優勝者に与えられる地球を型どったトロフィー)を授与されたときの感想を尋ねられたヒルシャーは

「しまった! と思った。夏の間にもっと真面目にトレーニングをしておけばよかった、と後悔した」と答えた。予想外の言葉に戸惑う記者たちの反応を楽しむかのように微笑んだヒルシャーは、こう続けた。

「トロフィーが重すぎて、持ち上げるのが大変だったんだ。来年までにもっと腕力を鍛えなければいけないね」。 

 

 タイトル争いの重圧から解放されてほっとしたのか、彼はリラックスした表情で記者たちを笑わせた。しかしシーズンの前半、わずか数ヶ月前までの彼の会見には、このような余裕はなかった。聞かれたことには何でも真っ正直に一所懸命に答えることで精一杯。とてもジョークで煙に巻くような余裕はなかったのだ。だが、勝利を積み上げ、ライバルたちとの死闘を経験しながら、彼は次第に変わっていった。今や、彼はかつてのヒルシャーではない。レースを重ねるごとにたくましさを増し、自信にあふれるようになった。2011/12シーズンは、マルセル・ヒルシャーという青年が アルペンレーサーとして、そしてひとりの人間として成熟していく冬でもあった。純朴だが少し垢抜けない山育ちの青年が、人々の注目のなか、スターへの階段を駆け上がっていく。そんな絵に書いたような成功物語をリアルタイムで見ることが出来たという点で、2011/12シーズンのアルペンスキー・ワールドカップは、きわめて興味深い戦いだったといえるだろう。

人々の注目なか、ヒルシャーはレースを重ねるごとに、その存在感を増していった

 

コスタリッチとの対決
 
 マルセル・ヒルシャーは、今季の開幕を期待半分・不安半分で迎えた。昨年2月、トレーニング中に左足首を骨折し、残りのシーズンを棒に振っていたからだ。彼は、半年以上にわたる苦しいリハビリと急ピッチのトレーニングを経て、2011/12シーズンのワールドカップに復帰した。GS開幕戦の時点では、何とか間に合ったという程度の仕上がりだった。だが、このレースで彼は6位入賞。本人の予想を大幅に上回る上々のスタートだった。続くGS第2戦では早くも優勝。さらにスラロームでも立て続けに表彰台に上り、復活ぶりをアピールした。 今シーズンのヒルシャーは、合計23レースに出場し、優勝9回(GS5勝SL4勝)2位2回3位3回という成績。クラン・モンタナのスーパーGで34位となったのを除けば、完走したレースではすべて6位以内に入賞。6割を超える確率で表彰台に登るという安定感だった。

 

 これらの素晴らしいレースのなかから、とくに印象深いものをいくつかあげるとしたら、その筆頭にくるのがザグレブ(クロアチア)で行なわれたスラローム第4戦だろう。ザグレブのスラロームは、イヴィッツァ・コスタリッチのホーム・レースである。会場のスリエーメは、父親アンテ・コスタリッチの厳しい指導のもと、まだ 幼いイヴィッツァとヤニッツァの兄妹が、ひたすら練習に励んだコース。短いリフトがわずか3本かかるだけのちっぽけなスキー場だが、コスタリッチ家及びクロアチアのスキーファンにとっては、まさに聖地のような山なのだ。そのスリエーメで、コスタリッチはまだ優勝したことがなかった。そして今季もまた彼は3位に甘んじた。優勝したのはヒルシャー。ふたりは今季のスラロームで激しくぶつかりあう最大のライバル同志である。1本目でトップに立ったヒルシャーは、2本目もライバルたちの追い上げを振り切って、勝利をつかんだ。ヒルシャーは

「とても難しいレースだった。多くの観客がイヴィッツァの勝利を願う中、集中力を保つのは簡単ではなかった。でも、そういう状況を克服して優勝できたことを誇りに思う」と語り

「今日のような荒れているコースは大好きだ。溝のないきれいなアイスバーンならば、多くのレーサーが速く滑ることができるだろうが、雪が軟らかくてバンピーなコースでは、本当に力がなければ勝つことができないからだ」と胸を張った。

 

 しかしこのレースは、半月後思わぬ波紋を巻き起こすことになる。クロアチアスキー連盟が「ザグレブでのヒルシャーは1本目の第1旗門をまたいでいたことが判明した」と発表したのだ。ヒルシャーにとっては寝耳に水の話だったが、問題は急速に発展し、現場はかなり混乱した。その顛末についてはこちらで詳細にレポートしているが、実際にはヒルシャーは無実だった。(関連記事:「ザグレブのナイトスラロームでヒルシャーはポールをまたいだのか?」)ビデオの映像では、またいでいるようにも見えたのだが、FIS(国際スキー連盟)のチーフ・レースディレクター、ギュンター・フヤラらの徹底的な検証によって、このときのヒルシャーが正しくポールを通過していたことが証明された。結果的にクロアチア、つまりコスタリッチ側の勇み足となったわけだが、当事者のふたりがともに総合ランキングで首位を争うライバル同士だっただけに、騒ぎは大きくなった。ヒルシャーとコスタリッチは次のレース、シュラドミングの公開ドローの席上で握手をかわし、一応の決着をみた。しかしふたりの間になんとなくわだかまりが残ったのは事実。その後のレースではコスタリッチがオーストリアのファンから強烈なブーイングを浴びせられたり、滑走中に雪玉をいくつも投げつけられたりして、不穏な空気となったのも残念なことであった。

健闘を讃え合うヒルシャーとコスタリッチ(ザグレブのスラローム)。しかしその後の騒動によってわだかまりも残ったようだ

 

 ザグレブのレースで優勝した時点で、ヒルシャーはワールドカップの総合得点争いでトップに立った。技術系スペシャリストとして、2種目の得点だけでオールラウンダーたちをしのいだのだ。一般的に言って、総合ランキングで上位にいる選手のほとんどは、オールラウンダーか準オールラウンダーで、少なくとも3種目で得点を稼ぐタイプの選手である。たとえばディディエ・クーシュ(スイス)やアクセル・ルンド・スヴィンダール(ノルウェー)のように高速系を得意としながらGSでも上位に入賞する力があるとか、あるいはベンヤミン・ライヒ(オーストリア)やイヴィッツァ・コスタリッチのように、技術系種目の絶対的な強さに加えてスーパーGでも侮れない力を持つ、といった選手が多い。逆に言えば、そういう選手でなければ、総合優勝を狙える位置には立てないというのが常識なのだ。ワールドカップの歴史を振り返ってみても、1997/98シーズンに優勝したアルベルト・トンバ(イタリア)を最後に、スペシャリストが総合チャンピオンの座についた例はない。だが、ヒルシャーはスラロームとジャイアント・スラロームの2種目で総合優勝に挑もうとしていた。

「これが3月初めの時点でのトップならば、少しは意識するだろうが、今の時点での総合順位にはあまり意味がない。」と言いつつも、

「総合チャンピオンを狙うのに、スラロームとGSだけで充分だと思うか?」という質問に対しては、「今の調子が続くとしたら、充分にチャンピオンを狙えるだろう」と強気の答え。そして、その週末に行なわれたアデルボーデン(スイス)の技術系2連戦でいずれも優勝し、2位以下との差をさらに広げたのである。

 

強力なサポート態勢の確立 

 故障明けにもかかわらず、今シーズンのヒルシャーがこれほどの好調を維持した要因について、彼自身はふたつの点をあげている。そのひとつは、サービスマンが変わったこと。もうひとつが、父親のフェルディナンドがチームと帯同するようになったことだという。新たにコンビを組むことになったエディ・ウンターベルガーは、これまでにもヘルマン・マイヤー、シュテファン・エベルハルターらを数多くの勝利に導いたアトミックのナンバー1サービスマン。昨年までは、オーストリア高速系チームのエース、ミヒャエル・ヴァルヒホーファーをサポートしていだが、彼の引退にともない、今季からヒルシャーを担当することになった。8月には、実に400キロの機材をニュージーランドに持ち込み、雪上トレーニングを通じてヒルシャーのためのスキーとブーツの理想的なセットアップを探ったという。彼の確かな目と豊富な経験は、機材面だけでなく精神的な支えという点でも大きな役割を果たしている。一方、父親のフェルディナンドは、ヒルシャーにとって生まれて最初のスキーコーチ。2歳で初めて板をはいた時から、つねにヒルシャーのスキーを見てきた。今季はチームと行動を共にし、身近なところから彼をサポートする。

「10代の半ば以降、僕は毎年のように所属するチームが変わった。州のチームからナショナルチームへ、ナショナルチームのなかでもジュニアチームからヨーロッパカップチーム、そしてワールドカップチームへ、というようにキャリアを重ねていくと、そのたびに環境やコーチが変わって、戸惑うことも少なくなかった。その点、僕のすべてを知っている父がそばにいてくれるのはとても心強い」。
 

コースサイドから息子の滑りを見つめるフェルディナンド・ヒルシャー

  とはいえ、正式なチームメンバーではないフェルディナンドは、レース時は付かず離れずの微妙な距離から息子をサポートする。たとえばインスペクションのと きにアドバイスするのは、あくまでもチームのコーチ。聞かれれば答える程度で、基本的にはチームに任せているようだ。レース中は、コースサイドでひとり離 れた場所からヒルシャーの滑りを見つめる。そして、息子の優勝が確定するとゴールに滑り降り、ちょっと控えめに祝福。そんなシーンを今シーズンは何度とな く見ることになった。

 フェルディナンドにとって、もっとも重要な役割は、トレーニング中に息子の滑りをビデオに収めることである。映像を見ながら詳細な技術分析をして、それをもとにトレーニングを組み立てるのだ。さらにマテリアルのセットアップの参考データとして、サービスマンのウンターベルガーに情報を伝える。そうして、互いに連携することで3人はユニットとして合理的に機能する。

「マルセルはまだ22歳だ。私の考えではアルペンレーサーとして完成されるのは29歳前後。その頃が精神と肉体がもっともバランスよくピークに達するからだ。それまでにはまだ時間が充分にある。大きな怪我や間違った方向性に進むことがなければ、彼は今よりもはるかに成熟したレーサーになるだろう。私はそのための努力ならばどんなことでもするつもりだ」とフェルディナンドは語る。すでに10年以上になるという父子での挑戦。規模としてはミニマムだが、信頼すべきサポート態勢が確立されたことが、ヒルシャーの躍進の力となっていることは確かだ。 

 

すべてを決めたスーパーG最終戦  

 

 シーズンの後半、総合優勝をめぐる争いは見応えのあるものだった。前述のように技術系2種目でポイントを積み重ねるヒルシャーに対して、コスタリッチはスラロームでの大量得点にコンバインドでの圧倒的強さを加えて対抗する。さらに、高速系に強いベアト・フォイツ(スイス)がこれに絡んで、順位は頻繁に入れ替わった。しかし、2月半ば、コスタリッチが膝の負傷で約3週間の欠場を余儀なくされたことで首位戦線から脱落。最終的にはヒルシャーとフォイツの一騎討ちとなった。

それほど得意ではないスーパーGで3位の大健闘。総合優勝をぐっと引き寄せる貴重な60点を獲得した

 そんなふたりのタイトル争いにおいて、決定的な意味を持つレースとなったのは、シュラドミングで行なわれたスーパーG最終戦である。この時点で、ヒルシャーのワールドカップポイントは1195点で、首位を行くフォイツに135点の差をつけられていた。もしフォイツがこのレースで2位以内に入ると、その時点で今シーズンのワールドカップ総合優勝のタイトルがフォイツの手に渡ってしまう可能性があった。仮にフォイツがスーパーG最終戦で2位に入り、一方ヒルシャーが無得点に終わったとすると、ふたりの差は215点となり、残り2レース(GSとスラロームの最終戦)ではもはや逆転不可能。 ヒルシャーが2レースとも優勝しても、総合では15点届かないのだ。したがって、ヒルシャーには何としてもフォイツとの差を200点未満にとどめておく必要があった。彼がダウンヒル、スーパーGではほとんど上位入賞のチャンスがないのと同様、フォイツは技術系ではあまりぱっとしない。もし勝負を技術系の最終戦まで持ち込むことが出来れば、そこで初めてヒルシャーにも勝機が生まれてくるのだ。 ただし、この時点では、フォイツが有利のように思われた。今季のスーパーG7戦のうち、フォイツは2レースで優勝し2レースで3位に入っている。これに対してヒルシャーはスーパーGにはクラン・モンタナの1レースしか出場しておらず、そのときは34位と惨敗している。したがってフォイツが最終戦で2位以内に入る可能性と、ヒルシャーが15位以内(最終戦に限ってはポイントを獲得できるのはは15位まで)に入る可能性とを比べれば、フォイツに分があるのは明らかだった。ヒルシャーのスーパーG出場は、ささやかな抵抗。はっきり言えば悪あがきにも見えた。 

 しかし数時間後、こうした机上の計算がときとしていかに無意味なものかを、人々は思い知る。スーパーG最終戦がまったく意外な展開となったからだ。フォイツは中盤過ぎでコースアウトし、一方ヒルシャーが3位に入賞。起こるはずのないことが起こり、形勢は一気にひっくり返った。得点差は75点にまで縮まった。ヒルシャーの力からすれば残り2レースで75点を稼ぐのは、それほど難しいことではない。しかもフォイツはGSはともかく、スラロームはまったくのノーチャンス。あとはただヒルシャーの追い上げを黙ってみているしかないという状況になった。

スーパーG最終戦での彼の滑りをスライドショーにしたもの。

 ヒルシャー自身、3位という成績にはひどく驚いたようだ。

「きょうはラッキーだった。2番というスタート順にも恵まれたし、ポールセットが通常のスーパーGよりもだいぶ細かったことも、僕にとっては嬉しいこと だった」と、彼はいつもどおり冷静に自分のレースを分析した。誰もが予想していなかったヒルシャーの3位入賞だが、その背景には彼のいうようにGS的な コースセットがあった。レース後、あるスイス人ジャーナリストは「きょうのレースはスーパーGではなく、少し距離の長いジャイアント・スラロームだった」と悔しそうに言った。もちろんフォイツの途中棄権を嘆いてのコメントだ。この日の細かいセットがヒルシャーに有利に働いたのとは反対に、フォイツには決定的に不利だった。モスクワで行なわれたシティイベント(パラレルスラローム)で負傷した膝の痛みは、ほとんど限界に達していたし、19番というスタート順も、この日の軟らかい雪質では影響が大きかった。一見有利な立場に見えたフォイツだが、実際の条件はさまざまな面でむしろヒルシャーに有利だったのだ。

 では、なぜスーパーG最終戦が「少し距離の長いジャイアント・スラローム」となったのか。ここから先は、多分に憶測を含むのだが、そこにはテッド・リガティ(アメリカ)の存在がからんでくる。話は一旦もどって、ヒルシャーがスーパーG最終戦にエントリーしてきた理由。それは前述したとおりスーパーGでの得点を少しでも加算し、フォイツの総合優勝決定を阻むことが最大の目的だっただろう。だがその一方で、たとえ無得点に終わったとしても、同じコースで土曜日に行なわれるGSのためのリハーサルにはなるだろう、という思惑があった。総合でフォイツとタイトルを争う一方、GSでもリガティと種目別優勝を争っている。したがってほぼ同じコースで行なわれるスーパーGを滑って、ここの雪とコースの特徴をつかんでおくことが大事だったのだ。たとえ、総合優勝は手が届かなくても、GSのタイトルだけは何としても手にしたい、というヒルシャーの強い決意が、そこに透けて見える。

 一方、リガティも専門外のスーパーGにエントリーしてきた。彼は総合タイトルを争う位置にはいないし、スーパーGの得点を必要としているわけでもない。 これはやはりヒルシャーとのGS決戦への準備と見るのが妥当だろう。昨シーズンのGSチャンピオンとして、彼もまたこの種目のタイトルに激しい意欲を燃や していたのだ。そしてスーパーG最終戦のコースセッターは、アメリカチームのコーチ、フォレスト・ケアリーだった。リガティが専門外のこの種目にあえて出場した理由を考えれば、ケアリーがなぜこのようなGS的なコースを設定したのかが想像がつく。勘ぐり過ぎかもしれないが、やはりそこにチーム事情が反映されていたのではないか。このレースの平均スピードは時速78㌔程度。たとえばフォイツが優勝したクヴィットフェルのスーパーGは平均時速100㌔だったのだから、その差は20㌔以上ととても大きい。このスピードの差が、予想外の結果につながったことは間違いないだろう。 リガティは全選手中最後の27番スタートを引き当てるというくじ運のなさだったが、それでも10位に食い込んだ。彼としては上々の順位といえるだろう。しかし皮肉にも、このGS的なセットは、リガティよりもむしろヒルシャーを勢いづかせることになってしまったのだ。 2日後に行なわれたGS最終戦で、リガティは1本目で致命的なミスを犯し、対照的にヒルシャーは2本目の素晴らしい滑りで優勝を飾った。この結果、ヒルシャーは総合でフォイツを逆転し、反対に25点の差をつけた。と同時にヒルシャーのGS種目別優勝も確定した。

 

GSの種目別タイトルをかけて猛アタックをかけたテッド・リガティだが、痛恨のミス

 逆転優勝の僅かな可能性にかけ、一か八かの勝負に出て失敗したリガティは、レース後、自身のツイッターにこう書き込んでいる。

「Live by the sword die by the sword.(剣で生きる者は剣で死ぬ)」。限界ギリギリまで攻めることによって、GSのタイトルをヒルシャーと争ってきたリガティだが、最後はその過剰なアタック故に自らの墓穴を掘ってしまったわけである。リガティは

「安定感では、明らかに彼のほうが優っていた。もう脱帽するしかない」とヒルシャーの勝利をたたえた。

 ヒルシャーは土壇場での底力を見せた。いったんは絶体絶命に追い込まれてたが、自らの手で一気にそれをひっくり返してみせた。たとえ運に恵まれてたとはいえ、誰にでもできることではない。なんともたくましい精神力というべきだろう。

 こうしたヒルシャーの気迫にベアト・フォイツはついに白旗をあげた。スラローム最終戦への出場を見送ったのだ。数字上かすかに可能性は残されていたが、しかしそのシナリオはあまりにも現実味がなかった。膝の痛みもほぼ限界に達していたフォイツは、スラロームへの出場を断念、この瞬間マルセル・ヒルシャーのワールドカップ総合優勝が決定したのである。

アルペン大国の小さエース。今後どこまで成長を続けるのだろうか

  170㌢そこそこの小柄な身体と、かすかに少年の面影を残す涼しげな表情。そんなしなやかな風貌のなかに「危険なこと、スピードの出ることならなんでも好き」というしたたかなレーサー魂を秘めて、ヒルシャーは2012シーズンのワールドカップを駆け抜けた。おそらく次の冬も、そのまた次の冬もアルペンスキー・ワールドカップは彼を中心に動いていくに違いない。

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