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1977年、日本選手で初めてワールドカップの第1シードにランクされた海和俊宏。

1988年、日本選手で初めてワールドカップの表彰台に立った岡部哲也。
ふたりの活躍はほぼ10年の時を隔てているが、
世界に挑み、さまざまな壁を乗り越え道を切り開いてきた
パイオニアとしての苦労は共通している。
オリンピックシーズンの開幕を前に、
日本を代表するふたりの名選手が、そのスキー人生を語り合った。

月刊スキージャーナル2002年3月号の記事を再構成したものです。

―― 海和さんは少年時代、どんな思いでワールドカップを見ていたのですか。

海和 スキーで世界をめざそうというきっかけとなったのは、札幌オリンピック(1972年)です。というのは、僕はあの頃、毎年夏になると月山で練習していたんですが、そこに札幌オリンピックの日本代表候補の人たちが合宿に来ていた。何となくお前も手伝えということになって、ポールを―当時は竹ポールでしたけど―を運んだり、コースの塩まきをやったり。そんなこともあって、札幌オリンピックがとても身近に感じたんです。で、自分も強くなれば、こういう舞台で戦えるんだという意識を持つようになって、それからですね、ワールドカップという舞台を現実的に考えるようになったのは。

 

―― 実際に初めてワールドカップに出場したのは75年の苗場大会ですね。

 

海和 そうですね。その頃からナショナル・チームの遠征に加わってヨーロッパの大会を回っていましたけど、出る大会出る大会トップから10秒以上も離されてぼろぼろになって帰ってきた(笑)。ところが、苗場大会の時はコース整備がすごく良くて、スタート順の遅い僕が滑る時でも、全然荒れていなかったんです。たしか千葉(晴久)さんが11位で僕が13位。あれ、何だ案外やれるんだ、なんてその気になって、高校でやめるつもりだったスキーを仕事にしてしまった、という感じですね。

 

――  岡部さんのワールドカップ・デビューも日本の大会でしたよね。

 

岡部 ええ、81年の富良野大会です。ただただ圧倒された思い出しか残っていませんけど。

 

海和 哲也がナショナルチームに入ってきた頃のことって、よく覚えているよ。初めて遠征に来たシーズン、ある時ドイツチームが使っていたコースを貸してもらって練習したんだけど、水を撒いて凍らせたからテカテカのアイスバーンだった。そしたら哲也は全然スキーにならなかったんだ。
 

岡部 だって、日本じゃ滑ったことがないくらい硬かったですからね。ターンのたびに脚がダーツと流れるので、みんなに、タラバガニってあだ名をつけられたんです。だから、当時はヨーロッパに行ってもつらい思い出しかなかったですね。

 

―― アルペンスキーはやはりヨーロッパが本場、戦う舞台もおもにアルプスのスキー場なわけですが、海和さんの時代と岡部さんの時代とでは、海外から入ってくる情報量もかなり違ったんじゃないですか?

 

海和 そうでしょうね。僕らの時代は、毎年ヨーロッパに行って初めて知ることだらけでした。あれ、今年はこんなふうになっているの? とびっくりするという感じ。それを取り入れて練習して、何とか追いついたころにはシーズンが終わってしまい、また次の年びっくりする。その繰り返しでしたね。とにかくあらゆる面で外国チームには遅れていて、たとえば、スキー板は日本に入ってきた市販用のなかから選んで持っていったし、移動はぼろぼろのワーゲンバス。空冷エンジンのバタバタバタって音をたてながら走る奴で、前は暑くて後ろは寒い(笑)。それでヨーロッパ中を走り回って、2日半に1レースの割合で試合に出ていたんだから、今考えるとずいぶん無茶なことをやっていたと思いますよ。そのなかでも、一番苦労したのは、やはりスキー板かな。ロシニョールの本社からスキー板をもらえるようになるまでが、すごく苦しかった。

 

―― 岡部さんの場合、最初の頃はニシザワのスキー板を使っていましたが、国産のスキー板と海外ブランドのスキー板との差というのは、感じましたか?

 

岡部 当時は、はっきり言ってまだ差があったと思います。ただ、それも考えようで、僕の場合、ニシザワを履いていたからこそ、いろいろな勉強ができたという面もあります。というのはスキー板づくりに、非常に深く関われたからです。遠征にいくたびに、当時速いと言われていたスキー板を手に入れて、それを日本でいろいろと分析する。そして少しでも近いもの、あるいはそれを超えた性能を出そうと研究する。工場の開発者たちと直にやり取りができたし、こう作ればもっと反応がよくなるとか、サイドカーブはこういうほうがいい、といったようなことを真剣に考えました。そうして自分が関わったスキー板でタイムが出ると、すごく大きな自信につながるわけです。海外ブランドのスキー板では、そこまで入り込めなかっただろうから、若いうちにそういう経験ができたことは、僕にとって非常にプラスになったと思います。

 

―― ロシニョールにチェンジしたのは、たしか86年ですよね。

 

岡部 そうです。その年の夏にフランスのティーニュでテストをして、ロシニョールに変えました。ニシザワ、ロシニョール、ディナスターの3ブランドを同一条件でテストして、最終的にロシニョールを選んだわけですが、このときタイム的に一番速かったのは、実はニシザワだったんです。だからそのとき担当してくれたロシニョール本社のサービスマンが、ニシザワのスキー板を持って帰りましたよ(笑)。ロシニョールは、平均的に速くてミスが少なかった点が気に入って選びました。とくにGSでのフィーリングがよかった。あの頃僕はGSが大好きでしたから。ロシニョールは、それまでに海和さんが実績を残しておいてくれたおかげで、最初から待遇はよかったですね。けっこうカスタムメイドに近いかたちでスキー板をつくってもらえました。それがすごく嬉しかったですね。

 

海和 ある程度成績が出てくると、ロシニョールの工場に自分専用のボックスが持てる。その選手用につくったモデルがストックしてあるんです。

 

岡部 ボックスにちゃんと自分の名前が書いてあるんですよね。

 

海和 そう。そこに自分専用のスキー板がキープされていて、必要な時に自由に持っていける。そこに行くまではすごく時間がかかったけど、初めて自分の名前が書いてあるボックスを見た時には、本当に感激しました。

 

―― ある意味で、レーサーとしてのステイタスですね。

 

海和 周囲に自分の力を認めさせたというひとつの証明にはなりましたね。

 

―― やはり同じワールドカップ・レーサーのなかでもヒエラルキーというか、ある種の力関係があって、ちょっとしたところで、その力関係が影響してくる。

 

岡部 それはたしかにありますよ。インスペクションなんかでも、強い選手の前に新入りが立ったりすると、ストックで叩かれてどかされちゃったり(笑)。

海和 ワールドカップに出始めた頃というのは、ゼッケンも60番とか70番台。僕は高校も分校で、団体行動というのはあまりしたことがないから、人間関係が下手なわけ。そうするとどうしてもゼッケンの数字の小さな選手に対して遠慮してしまうんですよ。

サラエボ五輪(1984年)での海和俊宏。このシーズンを最後に引退した 写真:雑協取材団

アマチュアリズムとプロ意識
 
――  だけどそういうところからスタートして、海和さんも岡部さんもワールドカップの第1シードまで上り詰めた。その過程には、さまざまな出来事があったはずですが、今振り返って、何が一番印象に残っていますか。

 

海和 僕が一番おもしろかったというか充実していたのは、ランキングで30位から20位くらいのとき。レースに出るたびに順位が上がっていくんですから。あれが勢いというやつなんでしょうね。で、結局第1シードまでたどり着いたんだけど、逆に第1シードに入ってからは苦しい思い出しかない。せっかくきれいで荒れていないコースで滑れるのに、さっぱりタイムが出なくなってしまった。こんなはずじゃなかった、という焦りが出てきて、さらに滑りがおかしくなってしまう。

 

―― 第1シードに入ったという重圧があったんですか?

 

海和 それはあったかもしれない。自分の滑りを、こんなの第1シードの滑りじゃないと思っていましたから。でも、当時のルールでは、FISポイントの改正がシーズンに2回くらいしかなくて、成績が出なくても、なかなかランキングが落ちないんですよ。今なら1レースごとにポイントを計算するから、だめなら徐々に落ちていくけど、あの頃は落ちたくても落としてもらえない(笑)。もう飼い殺しみたいなものですよ。僕は76/77シーズンの後半に第1シードに入って、次のシーズンまでキープしていたんだけど、とくに苦しかったのが77/78シーズンの前半。2月に世界選手権があって、その直前になってようやく調子が上がってきて、世界選手権では何とか7位に入ったんです。

 

―― よく、目標設定がまちがっていたとおっしやっていましたよね。

 

海和 そう。完全に失敗でしたね。第1シードに入るまでのことは、自分のイメージの中にあったんだけど、そこから先、たとえば優勝したいとか表彰台に上がりたいというのは、正直に言って想像できなかった。当時の状況では、そこが僕自身の限界だったし、日本チーム の限界でもあったんだと思います。歴史的に考えると、僕の前の時代には、千葉(晴久)さんや、柏木(正義)さん、市村(政美)さんといった先輩たちが成績を残してワールドカップが日本にも根付いた。僕がその後に続いて、何とか第1シードに入った。そして、哲也の時代には、ようやくワールドカップで勝つことが現実的な目標として考えられるようになったと思うんです。

 

―― 岡部さんは、ランキングが上がっていく過程で何が思い出に残っていますか?

 

岡部 ランキングで50位くらいにいるときって、FISレースや下のレベルの大会では結果が出るんだけど、 ワールドカップに行くとだめなんですよ。いつもズタズタに自信を切り裂かれて帰ってくる。当時のコース整備だと、ものすごく掘れていて自分の滑りをさせてもらえませんでしたから。

――  でも、そこから何とか這い上がらなくてはならない……。

岡部 僕の場合、大きなきっかけとなったのはマテリアルを替えたことと、オーストリアに留学してドイツ語を覚えたことですね。やはりヨーロッパの舞台で戦うためには、向こうの選手と同じ条件を手に入れ、自分を表現する手段を持たないとだめだと思ったんです。ヨーロッパの選手というのは、若くても強烈なプロ意識を持っている奴らがたくさんいる。だけど、僕は当時デサントの社員でサラリーマン。金額はともかく、勝とうが負けようが毎月決まった額の給料がもらえるからハングリーじゃない。そこで僕も海外に出て自分を追い込まないととてもかなわないなと。それとウエア以外のマテリアルをすべて替えて、最高の武器を手に入れた。これでだめなら、もう言い訳はできないという状況を作ったわけです。それでようやく自信を持つ ことができて、それと同時に成績も上がっていった。

 

―― 岡部さんのランキングがもっとも伸びたのは、86/87シーズンでしたね。

 

岡部 そうですね。12月にマドンナ・ディ・カンピリオで1本目5位になったんです。ゼッケンはたしか47番。あの時はイメージどおりの滑りができました。55旗門、ポールセットもまだ覚えていますよ。2本目で失敗しちゃったんだけど、これで俺も行けるという確信が持てました。だけどその後が続かず、世界選手権も1本目途中棄権。まだ最終戦が残っていたんだけど、あの頃の日本チームは3月はなかなか遠征に出してもらえなかったんです。だから帰りの飛行機の中で、ヘッドコーチの富井(澄博)さんに、ジャパンシリーズでポイントを取ったら最終戦に行かせてくださいって無理やり約束してもらって。で、八方で優勝、野沢で当時第1シードにいたヨナス・ニルソンに次いで2位になってポイントを取ったんです。急濾飛行機のチケットを買ってサラエボまで飛んで最終戦に出たら、4位に入った。それでランキングが14位にはね上がって、シーズンの土壇場で第1シードに入ったわけです。

 

海和 1シーズンの間に一気にいっちゃったんだ。そういう時というのは、勢いだよね。もう止まらない。

 

岡部 最終戦で4位になった夜にパーティがあったんですけど、そこでIMG(多くのトップアスリートと契約する世界的なマネージメント会社)の人からスポンサー契約の誘いがあったんです。嬉しかったですよ。えっ、マジ? 俺なんかでいいの? て感じ。でも当時はSAJ(全日本スキー連盟)のなかにそういう個人スポンサーに問する規約がなくて、結局まとまらなかったんです。そうするとまた新たな葛藤が生まれてくるわけです。自分はプロ意識を持って戦っているのに、現実にはアマチュアとしての枠のなかにとどまっていなければならないという。

 

海和 ワールドカップのような舞台で勝負していると、ある時期にかならずそういう問題とぶつからざるを得ないですね。僕はずうっとサラリーマンでやっていたから、最後までその問題に答えが出せなかった。一般の雑誌にスキー板と一緒に写った写真が載っただけでアマチュア規定違反だと言われた時代ですからね。僕は3回も始末書を書きましたよ。でも、僕の時代ですら、海外の選手はもうプロフェッショナルでした。あいつはワールドカップで勝ったからホテルを建てたとか、契約金がいくらだとかいろいろな話が聞こえてくるわけです。だけど僕自身はアマチュア規定の範囲内でしか動けなかった。あの時代は、それが当たり前で、自分ひとりの力ではどうしようもなかったんです。それが目に見えない形で滑りにも絶対に影響していたと思う。だから哲也なんかは、ある程度プロフェッショナルに近いやり方でレースができたというのは大きいと思いますね。

 

岡部 そうですね。でも僕の時代も逆風は強かったですよ。

 

海和 それは仕方ないよ。誰かが新しいことをやろうとする時って、いつもそうでしょ? みんなが賛成してくれるなんてことは、あり得ないんだから。

 

――   結局、海和さんと岡部さんとの10年の違いで、もっとも大きかったのは、そこかもしれませんね。

 

海和 大きいと思いますよ。だから哲也がある面でプロフェッショナルとして活躍していたのは、僕なんかからすればすごくうらやましかったです。

 

岡部 でも今だから言えるんですけど、そういうことというのは、あまりオープンにはできませんでしたね。

 

海和 みんなこういう話題って避けたがる。でも大事なことだと思うんですよ。今は女子マラソンやスケートでプロ宣言している選手も多いけど、そこに行くまではいろいろな形で泣いた選手がいたんです。スポーツはお金じゃないけど、少なくとも日本を出て世界で争うレベルでは、国内とはまた別次元のモチベーションが必要になるわけですから。

 

岡部 それは、ある意味で技術以上に大きな問題かもしれませんね。

 

――  現在は、日本選手も成績次第で個人スポンサーが認められるようになりましたが、そのきっかけをつくったのは岡部さんだった。それ以外でも、岡部さんが切り開いた道というのは、いろいろあると思うんですが。

 

岡部 海和さんをはじめ、先輩たちが築いてきた歴史があったからこそ、僕の道が開けたんだと思いますけどね。

 

―― 岡部さんの現役時代で印象に残っているのは、ある時期から脱日本人ということを意識していたんじゃないかということなんです。だからこそ摩擦も大きかったと思いますが、それまでの日本選手とは、また違ったアプローチでワールドカップに出て行った。

 

岡部 そうですね。でも僕はやはり日本人だから、最終的にはその枠を超えることはできない。だとしたら、それまでの日本選手のイメージを壊してやろう、従来とは違った日本人像を見せてやろうということは考えていました。実際のところヨーロッパに行くと日本選手はなめられているんですよ。どうせ奴らは遅いだろうとか、軟らかい雪でしか速く滑れないとか、そういうイメージで見られていた。たとえば、さっき話したマドンナ・ディ・カンピリオで1本目5位になった時も、2本目のスタート前に、サービスマン連中が「本当にあいつが5位になったのか?」みたいないことを言い合っているのが聞こえたんです。カチンと来ましたね。ふざけるなよ、と。絶対に負けたくないと思って、結果的にはそれが力みにつながって2本目に失敗しちゃったんですけど(笑)。でもいつか見てろよ、という気持ちはずうっと持ち続けた。

 

――   精神的に優位に立てるかどうか、というのは勝負の世界では、非常に大きな問題ですよね。

 

岡部 もちろんそうです。だから、僕はレース以外の時間の使い方をとても大事にしました。18歳でヨーロッパに渡ったというのは、正解でしたね。オーストリアはもちろん、イタリア、スイスと各国に友だちを作ってレースの合間に彼らの家に遊びに行ったり、ときにはレース前夜にコーチに内緒で友だちと飲みに行ったり。精神的なコントロールをする意味で、向こうの人間と接触する時間は非常に有効でした。だからヨーロッパは戦いの場だけど、そこに自分が本当に落ち着ける場所と時間をどれだけ持てるかということが重要だと思うんです。僕は一時期本気でモナコに家を持とうと考えていました。その後、病気をしたせいで成績が落ちてしまって実現できなかったのですが、けっこう真剣にそんなことを夢見ていた。結局、向こうの人間にはなりきれなかったけど、でもそこに入り込むことはできたと思う。入り込んだうえで日本人である自分を主張したんです。

 

海和 それは、うらやましい話ですよね。僕らの頃は、休みの日なんて何もすることがなかった。せいぜい買い物をするくらいで、あとはじーっとホテルに閉じこもっていました。今日から3日間はオフだと言われても、何をしていいかわからないんですよ。当時は年末も遠征に行きっぱなしで、日本には帰れなかった。ヨーロッパの連中はその間、家に帰って家族とクリスマスと正月を過ごしてくるのに、僕らはホテルで洗濯 (笑)。

 

―― 当時のスキー少年は、海和さんのことをみんな憧れの目で見ていたのに、けっこう地味な生活だったんですね(笑)。そうした苦しい毎日を耐える原動力は何だったのですか?

 

海和 だんだん成績が出始めて新聞に記事が載るようになると、向こうの人たちが名前を覚えてくれるんです。それが嬉しかったですね。イタリアとかオーストリアの田舎町に行くとみんな歓迎してくれる。

岡部 そうそう。国境とか行くとすごくなかったですか?

 

海和 そうなんだよ。最初の頃は、どこの国境でも厳しく調べられたけど、そのうちパスポートも見ないし、がんばれよと言ってくれる。ああ、こんなにスポーツが生活に根付いているんだなって感じましたね。

岡部が世界の舞台に駆け上がった86/87シーズン。

46番スタートから1本目5位となったマドンナ・ディ・カンピリオのレース。

Photo:Kenji Kinoshita

アマチュアリズムとプロ意識

 

―― 第1シードの15人に入るというのは、アルペンレースの世界では、大変なステイタスなわけです。当然周囲の見る目も変わってくると思うのですが、そのへんはどうだったのですか?

 

海和 僕の場合は、自分は変わらないつもりだったけど、周囲はやはりそれまでとは違いましたね。帰国すると空港でいきなり記者会見がセッティングされていましたから。会社に行っても、雰囲気が全然違う。それによって何か自分も変わらなくちやいけないように思って、無理やり変えていたような気がします。やっぱりタイミングが悪かったんでしょうね。自分の気持ちの整理がつかないうちに第1シードに入ってしまって、舞い上がってしまった。だってどう考えてもまぐれだもの、僕の場合。

 

――  まぐれと言うのは?

 

海和 そのシーズン、ヨーロッパカップでは3勝していたけど、ワールドカップではほとんどだめだったんです。で第1シード入りの決め手となったレースというのは、FISレース。たまたまワールドカップのスケジュールが空いていて第1シードの選手が5、6人出ていたんだけど、天気は土砂降りでみんなやる気がないわけですよ。ところがこっちはこれはポイント取るチャンスだし、目の前に第1シードがちらついているから必死。そしたら優勝しちやったんですよ。で獲得したFISポイントが5点ちょっと。こうなると勢いがついて、次のワールドカップでも7位に入ってそのまま第1シードですよ。だから勢いだけで入っちゃった。

 

岡部 でも、そういう勢いをつかめるかどうかというのも実力しだいですよね。いくら勢いがあっても、その流れを引き寄せるためには運だけでは不可能。

 

海和 そうなんけど、僕の場合、心の準備ができていなかったから、そこで目標を見失ってしまった。それが今考えると、とても残念です。

 

―― 岡部さんの場合はどうだったんですか? 目標の設定という点で。

 

岡部 第1シードに入った時に僕が考えたのは、これでやっとスタート地点に立てたな、ということです。ただ、正直言ってその段階ではまだ優勝というのは見えませんでしたね。第1シードの15人のなかでも、やはりレベルの差ははっきりあるわけですよ。つねに優勝争いに絡める選手と、うまく行けば表彰台を狙える選手というふうに。僕の場合は、もちろん優勝ということはつねに考えてはいたけど、とりあえず上位5人に入りたいというのが、現実的な目標でしたね。

 

―― 岡部さんはワールドカップの表彰台に2回上がりましたよね。88年オップダール(ノルウエー)の2位と90年のシュラドミング(オーストリア)の3位。次はいよいよ優勝だと周囲の期待が高まったのですが、本人の感覚では、まだ優勝はむずかしいと感じていたのですか。

 

岡部 いやチャンスは充分あったと思います。その2レースを含めて、勝つチャンスは3回あったんです。でも実際には勝てなかった。結果がそうである以上、本人としては実力がそこまでだったとしか言えないですよ。

カルガリー五輪(1988)のスラローム1本目のスタート。このレースでは12位に終わった岡部だが、直後のワールドカップで自己最高の2位となっている 写真:雑協取材団

オリンピックヘの期待

 

―― さて、ソルトレイクシティ・オリンピックが目前に迫ってきました。海和さんは2回(80年レイクプラシッド大会、84年サラエボ大会)、岡部さんは3回(88年カルガリー大会、92年アルベールヴィル大会、94年リレハンメル大会)の五輪出場を果たしているわけですが、オリンピックという大きな舞台での思い出にはどんなものがありますか。

 

海和 オリンピックには苦い思い出しかないですね。80年は前の年の春にアキレス腱を切って、とりあえず出してもらったという感じで、勝負ができるコンディションではなかった。84年は現役を引退すると決めていたから、何としてもゴールして順位を残したかった。お前は何のために日の丸を背負っていたんだと言われれば、お恥ずかしい限りですけど、正直言って何としてでもゴールに入りたいという滑りでした。結果的には12位だったのですが、成績そのものよりも、もう世界の舞台でトップレーサーたちと一緒に戦うのはこれが最後なんだという感傷のほうが思い出に残っていますね。

 

岡部 僕は3回出ているけれど、今振り返ると最初のカルガリー大会の時が、一番チャンスが大きかった。第1シードにいたし、大会前の調子も良かったですしね。自分がメダルを取るシーンをはっきりイメージできたんですよ。ところが、そのイメージがあまりに鮮明だったせいで、レースの前夜はまったく眠れなかった。睡眠時間は2時間。何かに取り憑かれてしまったような感じでした。だから滑りは全然だめで、1本目で15位。当時のルールでは2本目は最初のスタートで、本来は有利なはずだったんですけど、不運にも激しい雪が降ってきてスキー板が全然滑らない。結局12位に上がるのが精いっぱいでした。悔しかったですね。本当に悔しかった。それでその後のワールドカップで2位になって「こんなものだよな。俺ってビッグイ ベントには弱いんだな。でもワールドカップだってビッグイベントだよな」って自分を慰めました。そのとき海和さんから「オリンピックは2回目が勝負なんだよ」って言われて勇気づけられたんですよ。

 

―― ところが、次のアルベールヴィル五輪は、前の年の夏から秋にかけてひどい病気にかかってしまった。

 

岡部 あの時は、もうスキーはできないと思いましたからね。だからオリンピックも18位に終わったけど、スキーができただけで嬉しかった大会です。94年も何とかぎりぎりで代表に選ばれたんですけど2本目で途中棄権。僕のスキー人生でオリンピックというのは、そういうものでした。でも、3回も出場できたというのは、誇りに思っています。木村(公宣)は、今回の代表に選ばれると4回目のオリンピックなんですよね。今の時点ではまだわかりませんけど、あの雰囲気を4回も味わえるのは幸せなことだと思います。出たくても1度も出場できない選手がほとんどなのだから、悔いのないように戦って欲しいですよね。

 

―― こうして昔話をすると、時間はいくらあってもたりませんが、最後に現在の日本チームに関してうかがいたいと思います。海和さんは、今はちょっと現場とは離れたところにいますが、ワールドカップはCS放送で必ず見ているそうですね。

 

海和 テレビで見るのと現場とは違うから、技術的なことは、はっきりいってよくわかりません。ただ、自分の経験を踏まえて言えるのは、選手たちにどうやって明確な目標を持たせられるか、ということだと思うんです。技術的にはもちろんですけど、そういう精神的な部分で選手をコントロールできるチームであって欲しいと思いますね。ただ闇雲に突っ走るのと、目標をしっかり見据えて走るのでは絶対に結果が違ってきますから。技術的なことは、本当にちょっとしたきっかけで変わってくると思います。上位の数10人の力なんてみんな接近しているから、少しのことで大きく変わる。だからこそ、それまで2本目に残ったことのない賢太郎が一昨年のキッツビューエルでいきなり6位になったんだろうし、去年あれほど悩んでいた公宜がセストリエールで4位に入れたんだと思うんです。

 

―― 岡部さんはいかがですか? テレビの解説などを通じて、OBのなかでは比較的、選手たちに近い位置にいると思うんですけど。

 

岡部 今の日本チームで一番気になるのは層が薄いということですね。木村、皆川(賢太郎)と若い選手たちの力の差がまだ大きい。日本チームにはワールドカップに4つの出場粋があって今シーズンは、佐々木(明)がワールドカップチームに加わってきましたけど、それでもまだひとつ粋が残っている。そのひとつを生かせる選手が出てきて欲しいし、チームはそういう可能性のある選手には積極的にチャンスを与えて欲しい。今シーズンのスラロームは、イヴィツァ・コスタリッチ(クロアチア)が64番スタートから優勝したり、54番スタートのボディ・ミラー(アメリカ)が表彰台に上がったり、何が起こるかわからない状態です。そこまでのジャンプアップはそう簡単にはできないでしょうけど、選手としては、与えられないチャンスは生かせないわけですから。それと自分たちは世界を相手に戦っているんだという誇りをいかに持てるか。その意味を自分たちが認識すると同時に、周囲にもっと知らせる必要があると思います。そしてナショナルチームのメンバーであるというステイタスを確立してはしいんです。僕の今の仕事のひとつは、メディアを通じてそれを一般の人たちに伝えていくことなんですが、できることなら何でも協力したいと思っています。

 

―― オリンピックに向けては、どんなことを期待しますか。

 

岡部 オリンピックとか世界選手権といったビッグイベントになると、選手個人だけでなくチームの勢いが非常に大事になってきます。アルペンスキーは、個人種目なんだけどチームの力は無視できない。ですから、オリンピックまでにいかにチームの勢いをつけられるかが重要。皆川、木村ががんばるのは当然として、その雰囲気を他の選手が共有できないと、あの大舞台で本当の実力は発揮できないでしょうね。

 

海和 ジャンプにもノルディック複合にも期待は大きいのですが、やはり僕たちとしては、アルペンにがんばって欲しい。具体的に何位というのではなく、とにかく自分の納得のできる滑りをしてほしいと思います。

 

―― 話は尽きませんが、きょうは長い時間ありがとうございました。
 

(2001年12月3日・東京で収録)