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月刊スキージャーナル2007年4月号の掲載記事を再構成したものです。 

 

 

 2006年の秋、ボーディ・ミラーはアメリカの一部のメディアに対して次のような発言をしている。
「僕はもういつでもやめる準備はできている。おそらく06/07シーズンの終了後に、ワールドカップから引退することになるだろう」。

現在のワールドカッ プを代表するスター選手の引退表明。それはファンやメディアにとって充分に衝撃的なものであったが、一方で、意外に冷静に受け止められたこともまた事実で ある。なぜなら、ボーディ・ミラーがアルペンレースからの決別を口にしたのは、これが初めてのことではなかったからだ。
 ここ数年、彼は自分がおかれた状況に対して違和感を抱き続けていた。彼が求めてきたのは純粋にアルペンレースを楽しむこと。そのなかで自分のパフォーマ ンスを100%発揮することであった。しかし勝てば勝つほど、活躍すればするほど彼に対する称賛は大きなものとなり、現実にはつねに周囲の注目のなかで過ごさなくてはならなかった。かつてのように思うがまま自由に振舞うことは許されず、他の選手のロール・モデル(手本)となる品行方正さまでもが求められる ようになった。大自然の中で幼年時代を過ごし、かつてヒッピーだったという両親からは自由と独立の精神を注ぎ込まれた彼にとって、ワールドカップのスター 選手というポジションは、けっして居心地の良いものではなかったのだ。

 

 そうした状況にストレスを感じるようになってからのミラーは、本来の自由奔放さの陰に、微妙な苛立ちをうかがわせるようになっていた。たとえばこの3シーズンの間、彼はUSチームとは行動をともにせず、自分だけのモーターホームで生活しながらワールドカップを戦ってきた。チームの規律や周囲の雑音に縛られることなくプライバシーを確保し、自由になる空間を手に入れたいと願ったからである。

 だがチームとしてはこれを快く思わないのも当然だろう。これまでは、特例として彼とダロン・ロールヴス(昨シーズン終了後に引退)のモーターホーム生活を認めていたものの、今季から、シーズン中は基本的にホテルに入ることを義務付けられたという。彼は渋々ながらこれに従い、窮屈なホテル暮らしをするようになった。それでもモーターホームは手放さず、レースの合間や移動のとき、 つかの間のリラックスをはかるために使っている。昨年までと同様、選手・関係者専用の駐車場にとめてあるボーディ・ミラーのモーターホームは、彼の奔放さと反骨精神の象徴のようにも見えるのである。

 
 

 

 前述したように、以前から彼はしばしばこの世界からの決別をほのめかしていた。トリノ五輪の前年には、オリンピックに出場することに意味を感じられないといって不参加を表明したし、その前年にはワールドカップとは別の組織を作り、新たなシリーズ戦を立ち上げたいと宣言したこともある。結局は振り上げた拳 (こぶし)を自ら下ろしているのだが、こうした既成の概念や権威への反抗は、結果としてボーディ・ミラーというレーサーのキャラクターを際立たせているように思う。今にもどこかへはみ出しそうになりながら、辛うじてこちら側にとどまっている、その存在の危なっかしさが、そのままレースにおける彼の滑りにも通じるからだ。
 ボーディ・ミラーが現在のワールドカップでもっとも愛されるレーサーであることは、間違いのない事実である。オーストリア人にとっての最大の英雄は、ヘルマン・マイヤーだろうし、イタリアではジョルジオ・ロッカが一番の人気者だ。しかし国に関係なく、どこに行ってもひときわ大きな声援を受ける選手は、ボーディ・ミラーをおいて他にいない。彼の人気は国境を飛び越えて世界中に広がっており、今やこのスポーツにとって、なくてはならない大きな存在感を放っているのである。

 

 彼の人気は、まず第一にその独特なスキースタイルによるものだ。いつ、どんなレースでも攻撃的。極限まで直線的にアタックするアグレッシブな滑りは、しばしば破綻を招いてしまうのだが、それでもなお彼はまっすぐに突っ込むことをやめない。あまりにリスクを冒すために失敗の確率は必然的に高くなるものの、勝つ時には他のレーサーをはるか後方に置き去りにする圧倒的な速さを見せ付ける。過去にもこういうタイプのレーサーはいたが、ボーディ・ミラーのアグレッシブさは、そのなかでも群を抜いて過激である。
 その一方で、ファンに対してはひたすらフレンドリーなのも彼の特徴だ。いつも柔らかな笑顔を浮かべ、サインを求められれば気軽に応じる。もちろん、それはプロフェッショナルなアスリートとしての義務でもあり、彼自身時として負担に感じることもあるというが、本来の彼は、誰に対してもやさしく丁寧に接する気のいい若者なのだ。
 過剰なまでに攻撃的な滑りと、やさしくフレンドリーなファンサービス、そして常識の枠に収まりきらない自由なふるまい。それらオンとオフとの鮮やかなコントラストが、ボーディ・ミラーというレーサーの存在をより魅力的なものにしていることは間違いない。

新たなモチベーションとなったマテリアルの変更

 ボーディ・ミラーにとって、ここ数年の大きな課題は、戦うためのモチベーションをどのように維持するかということだった。もともと彼は勝負にこだわるタイプのレーサーではない。タイトルへの執着はそれほどないし、ワールドカップの通算勝利数(2012/13シーズン終了時点で33勝で歴代7位。現役選手としてはベンジャミン・ライヒに次ぐ第2位)にも興味を示さない。記者会見でこうした記録について聞かれると、いつもそっけない返答をするのがつねだった。彼にとってレースとは、いかに自分の理想の滑りが実現できるか、それのみに集中する戦いの場なのだ。
「自分のパフォーマンスに満足できれば、たとえゴールできなくてもそれはそれでかまわないんだ」。彼はことあるごとにそういい続けてきた。しかし、チャンピオンとなりスター選手ともなると、周囲からはつねにレースでの勝利を求められるようになる。彼としてもファンの期待に応え彼らを喜ばせるのは嬉しいことには違いなかったが、だからといってそれに縛られるのは嫌だったのだ。あくまでも自分のためにスキーをしたい。そう願う彼にとって、アルペンレースにモチベーションを見出すことは、次第にむずかしいことになっていった。

 

 そんな彼は、昨年の春にマテリアルを一新した。ヘッド・チロリアチームと2年契約を結んだのだ。04/05シーズンにはワールドカップ総合優勝。昨シーズンも不調とはいいながら総合3位とそれなりの結果を残していたにもかかわらず、あえてメーカーを変えて新たな2年に臨もうというのである。そこに彼がこのマテリアル変更にかける強い意志がうかがわれる。もう一度、自分の思うようにレースを戦いたい。理想とする滑りをとことん追求して自分のスタイルを確立したい。ともすれば見失いがちだったレースへのモチベーションを、あらたなパートナーとともに探す決意を彼はしたのである。
「僕のようなオールラウンダーがスキーメーカーを変えるのは、難しいことだ。各種目のスキーテストに時間をかけることは簡単ではないし、すべてを同時によくしていかなくてはいけないからね。メーカー側に大きな情熱と努力が必要だし、当然多くの資金がなくてはならない。ヘッドとは交渉段階からこのことについて何度も話し合い議論をした。その結果、彼らも僕の考えを理解し、喜んで協力するといってくれた。その言葉をよく実現してくれていると思う。われわれは間違いなく前進している」。ヘッドとの協力関係について、ミラーはこう語っている。
 その言葉通り今シーズンの彼は12月中に早くも3勝(ダウンヒル1勝、スーパーG2勝)をあげ、さらに1月にもウェンゲンのダウンヒルで優勝。開幕前には、
「今年は、意識的にピーキング(調子の波をベストに持っていくためのコンディション調整)を遅らせる」と語っていたのだが、言葉とは裏腹に今年も強烈なスタートダッシュを見せて、現時点でもっとも多くの勝利を記録している。
 ここで注目したいのは、ボーディ・ミラーだけでなく、今季からヘッドチームに加わったレーサーの多くが好調なシーズンを送っていることである。たとえば 女子では、マリア・リーシュ(ドイツ)とカレン・プッツァー(イタリア)。ともに怪我による苦しい時期を過ごしてきたふたりの実力者が見事なカムバックを 果たして表彰台の中央に返り咲いたし、男子ではディディエ・クーシュ(スイス)の快進撃がめざましい。彼もまたこの2シーズン、怪我に苦しみ満足な滑りが できずにくすぶっていた選手である。そのクーシュが、ヘッドに乗り換えた今季は開幕から絶好調。優勝こそないものの、つねに1桁順位をキープし、2位も4回。ダウンヒルの種目別トップを走り、総合では3位(2月22日現在)と34歳にして生涯最高のシーズンとなりそうな勢いで突っ走っている。

 

 1月17日、ウェンゲンで行なわれた男子ダウンヒル第6戦は、そんなヘッドチームの好調さを象徴するようなレースだった。優勝したのはボーディ・ミラー。ディディエ・クーシュが2位に続き、さらにアンブロジ・ホフマン(スイス)とマルコ・ビュッヘル(リヒテンシュタイン)が4位・5位に並ぶ。ワールドカップ最長の4480mという全長を誇るウェンゲンのラウバーホルン・ダウンヒルで、上位5人のうち4人がヘッドをはいていたわけである。


 ミラーの勝利は、コースの後半での驚異的な集中力によってもたらされたといってよいだろう。特にゴール直前のS字カーブをきわめてダイレクトなラインで攻め、最後のジャンプを大きく飛ぶという攻撃的な滑りが印象的だった。彼自身のコメントによると、これは昨シーズンこのコースで優勝したダロン・ロールヴスの滑りにインスパイアされたものだという。
「去年のダロンの滑りはすばらしかった。レースの後に彼は、信じられないほど疲れたといっていたが、それだけ最後まで集中して滑ったということだろう。今日のレースではその滑りを僕が再現したわけだ」。

勝因についてそう語る彼は、最後のジャンプをほとんどフィニッシュラインまで飛んだ。ここまで飛距離が出 ると、着地した次の瞬間には斜度がなくなる。

つまり約30mの高さから飛び降りるのと同じことで、まともに着地したのでは、衝撃に耐え切れずクラッシュしてしまう。そこでミラーは、雪面にスキー板が着くと同時に意識的に転倒し、ショックを逃がしながらゴールするという離れ業を演じて見せた。 

 瞬間的な判断だったが、あらかじめシミュレーションも済ませてあったので、その動きはいっさいの無駄がなく完璧だった。それまでトップだったペーター・フィル(イタリ ア)を1秒47もぶっちぎる圧倒的なベストタイム。直後に滑ったクーシュが0秒65差に迫ったが、それが精一杯だった。
 

 

 レース後のクーシュは、ミラーの滑りをこう称えた。
「わずか16秒あまりの最終区間で、ボーディに0.4秒もの差をつけられてしまった。ビデオで見たのだが、最後のS字からゴールに至る彼の滑りは、まったくすばらしいものだった。僕にはあそこまで攻撃的に滑る体力も精神的な覚悟もなかった。それが0.4秒の大差につながったのだと思う」。そう語るクーシュの顔には、ほとんどあきれはてたという表情が浮かんでいた。恐るべき破壊力。本来の力を発揮したときのボーディ・ミラーがいかに爆発的に速いか。彼の持つ 底力を改めて示したという点で、今シーズンの白眉のレースといえるだろう。

理想の滑りに対する頑固なこだわり

 だが、その一方であっけなく失敗に終わるレースも少なくない。とくにスラロームでは今季1ポイントも獲得しておらず、昨シーズンまで遡ると、連続10 レース無得点。このスラロームの不調は、ダウンヒルとスラロームの合計タイムで競うスーパー・コンバインドの成績でも足を引っ張り、こちらもノーポイントである(2月22日現在)。
 もっともミラー本人はこのことについて、あまり悩んでいる風ではない。
「優勝が続いたかと思うと突然勝てなくなり、それがまた長い間続く。それが昔からの僕のレースの傾向だから、もう慣れっこになっている。結果を分析してそこから学ぶものを得たら、後は忘れてしまう。そういう切り替えは得意なんだ」といって笑うのだ。
 とはいえ、もちろんただ笑って済ませているわけではない。スラロームでも他の種目同様表彰台に上れるように、さまざまな努力は続けている。スラロームはかつてのミラーにとってはもっとも得意な種目であった。01/02シーズンにはイヴィッツァ・コスタリッチ(クロアチア)とスラロームの種目別チャンピオンを争ったし、その年のシュラドミングでの圧倒的な勝利は、今でもファンの語り草となっているほどだ。しかし、直線的に旗門に突っ込み、ほとんどスキー板を回さずに、さらに加速しながら抜けていく、という彼独特のスラロームは現在のレギュレーションにおいてきわめて困難になっていることも事実だろう。旗門間の距離が最大13mと狭められ、横への振り幅も大きくなった現在のスラロームでは、ミラーの滑りはあまりにリスキーなのだ。だが、それでも彼は自分のスタイルを変えようとしていない。相変わらず失敗を繰り返しながら、あくまで直線的に旗門に突っ込んでいくのだ。

 

 スラロームのマテリアル作りでも、彼はこの基本的なスタイルを崩していないようだ。1月半ば、ミラーは他のUSチームのメンバーとともにインスブルック近郊のスキー場、キュータイでスラローム・トレーニングを行なったが、このときには、ヘッドのスキー板、ブーツ、そしてチロリアのバインディングの開発担当者が集結。約1時間にわたるミーティングを行なっていた。漏れ伝わってくる情報から推測するに、彼の理想とする滑りを可能にするスペシャルなスキー板の開発に関する緊急ミーティングだったようである。自分がどのようなターンを目指しているのか、そのためにマテリアルにはどのような特性を求めるのか。懸命に説明するミラーの姿からは、彼がいかにスラロームでの復活を強く望んでいるかという思いをうかがい知ることができた。
「スキー、ブーツ、プレート、バインディングのコンビネーションについてどう考えている?」という質問に対して、彼はこう答えている。
「確かに大切だ。多くの場合、それらの要素すべてが関係しあっている。僕の理想を実現するためには、それぞれのマテリアルを熟知しているスタッフが重要なんだ。その意味でヘッドはとても良い仕事をしてくれる。ブーツとバインディングの開発スタッフが、性能を最高レベルまで高めようとがんばってくれている。だからこそ、僕とライナー(レーシングスキーの開発責任者のライナー・サルツゲーバー。かつてGSスペシャリストとしてワールドカップで活躍した)はスキー板の向上だけに集中することができるんだ」
 本人の説明によれば、彼にとっての現時点の最大の課題はプレートだという。ターンのマキシマムの後、ポールをわずかに超えたところでのグリップをさらに高めるのが彼の最大の希望で、そのためにはスキー板とバインディング、さらにブーツとをつなぐインターフェイスであるプレートの改良が重要だと考えているようだ。
「いずれにしても、それぞれのパーツではなく全体としてとらえていくことが重要だと思う。これらの関係をトータルで高めていけば、きっと僕にとっての最高のマテリアルができるはずだ」。そう言って笑うミラーの顔は穏やかだったが、その目は真剣でもあった。とても、今シーズンでワールドカップを去る選手の表情には見えなかったことを報告しておこう。

 

 このミーティングの2日後、キッツビューエルのスラロームを前にして行なわれたプレスイベントで、彼はア

メリカの女性記者から引退に関しての質問を受けた。
「昨日ヘルマン・マイヤーがまだ引退しないと発言したが、あなたはあと何年続けるつもりなのか?」。
これに対してミラーは、こう答えている。
「ヘッド社との契約があと2年残っている。自分としては契約満了まで続けようと考えているし、その後もレースを続けるだろう。僕はその時々に応じて考えを変える人間だから、うまくいかなければ途中でやめるかもしれない。ただ現時点では非常に満足していている。ひどい怪我もしてないし、あとは状況がどうなるかによるよ」。
 これまた推測になるが、おそらく彼はまだしばらくの間ワールドカップにとどまることだろう。年に何度かはファンの度肝を抜くような爆発的な滑りを見せてくれるはずだ。そしてスラロームでは、相変わらず失敗は多いものの、いつか再び表彰台に立つ日がくるのではないだろうか。

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