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2003年1月27日。

キッツビュールのスーパーGでヘルマン・マイヤーが優勝した。

それはワールドカップにおける

彼の通算42回目の勝利であり、

同時に彼にとってもっとも輝かしく

もっとも価値ある勝利でもあった。

選手生命の危機に直面した2年前の交通事故以来、

復帰を信じひたすら突き進んできたヘルマン・マイヤー。

地獄をのぞき、絶望の淵から這い上がった彼の

521日間に渡る、長く苦しい戦いを検証する。

 

(月刊スキージャーナル2003年10月号の掲載記事を再構成したものです)

 2001年8月24日午後7時半、1機のレスキューヘリコプターがザルツブルクにある救急病院を目指して飛んでいた。無線によって病院の救急チームに通報された内容は「オートバイと自動車の接触事故。負傷者は足を骨折、そして大量の出血。緊急外科手術の準備を要請する」。
 もっとも、怪我の程度はひどいが、おそらく生命に別状はない。事故自体はオーストリアの地方都市でもそれほど珍しくはないものだった。だが、その事故が 少し特別だったのは、これから病院に搬送される負傷者が、オーストリアでもっとも有名なスポーツ選手、ヘルマン・マイヤーだったことである。

 その日、ヘルマンマイヤーは自宅近くのラートシュタットの街をオートバイで走っていた。前方には白いメルセデスがおり、彼はその車を追い抜こうとしてアクセル開けた。すると突然車が左に進路を変えてきた。運転していたのはドイツ人の観光客で、彼はそこが一方通行の出口であるのを知らずに、いきなり左折進入しようとしたのである。ヘルマンは進路をふさがれる形となったが、それでも左側から追い抜けると思った。しかし、わずかに加速が足りず、彼の乗ったオートバイはメルセデスに接触した。弾みでヘルマンの身体は空中高く放り出され、何度か回転 しながら道路脇の側溝の中に激しく突っ込んだ。

 

「気がつくと、右足のつま先が見えた。感覚が全くなかった。ふくらはぎの先からかろうじてぶら下がっている状態で、すねの骨もまっぷたつに折れていた。こんなことになってしまって、俺はこれからいったいどうしたらいいんだと、途方に暮れた」 。

 

 幸いなことに一命はとりとめたものの、ワールドカップで通算3度の総合優勝を果たし、ふたつのオリンピック金メダルを持つ最強のアルペンレーサー、ヘルマン・マイヤーの選手生命は、このときほとんど終わりかけていた。だが、実際にはそれは終わりではなく、奇跡的な復活に向けた、気が遠くなるほどに長く苦しい戦いの始まりだったのである。

手術は8時間にもおよぶ大がかりなものとなった。まっぷたつに折れた下肢を長さ36cmのチタニウム製のプレートで固定し、ずたずたに引き裂かれた神経をてていねいに縫合。骨が皮膚を突き破って飛び出していた部分には、上腕部から筋肉と皮膚の組織が移植された。

病院に駆けつけた母親は、手術直後の彼の様子をこう証言する。

「ヘルマンは、ベッドで自分のつま先を眺めてばかりいました。そして『ちゃんと動かせるようになるかなあ?』と、しきりに私に尋ねるのです。移植した組織が拒否反応を起こして、足を切断するという自体になることを、彼はとても恐れていました」

事故から2日後、化学療法の影響で、ヘルマンは急性の肝炎を発症。彼は残りの人生を車椅子で送ることになるのではないかという強い不安に襲われていた。

8日後、危機的な状況を脱し、負傷個所から包帯がはずされた。だが、足は見るも無残な状態だった。ふくらはぎが太ももよりも太く腫れ上がっていたのだ。もう2度とスキーブーツをはくことができないと思い、彼は絶望的な気持ちになった。

 

一方、事故の直後から、オーストリアスキー連盟はヘルマンの復帰に向けてすばやく動き始めていた。アルペンスキーを国技とするオーストリアにとって、ヘルマン・マイヤーは至宝と言ってもいい存在である。何としても彼の選手生命を救い、そしてふたたび栄光の舞台に立ち戻らせなければならなかった。医学の粋を結集した医療チームが編成され、彼の治療とリハビリテーションに全力をあげて取り組んだ。

 事故から2週間後、医療チームはヘルマンに早くもマシンを使った上半身のトレーニングを開始させた。

「何もしていないとすぐに考え込んで暗い気分になってしまうので、トレーニングはちょうどよかった。とにかく必死にやった。フィジカルな面での効果は少なかったが、でも疲れきってすぐに寝付くことができたのは、とてもありがたかった」

ヘルマンは、この頃から次第に復帰への意欲を持ち始めた。トレーニングをすることによって、アスリートとしての闘争心が覚醒したのだろう。生死の縁をさまよった最悪の精神状態から抜け出し、再びレースの世界に戻ることを望むようになったのだ。
もちろん、体力の低下は著しく、少し体を動かしただけで、すぐに疲れてしまう。すべての動きが強烈な痛みとの戦いだったが、しかし、彼はその戦いをやり抜く覚悟を固めることができたのである。

 20日後に退院したヘルマンは、30日後には松葉杖をつかなくても(ごくゆっくりとだが)歩けるようになった。 47日後には下肢に埋め込まれていたボルトを取り除く手術。事故前に90キロあった体重が77キロにまで落ちていたが、神経は少しずつ繋がり始めていた。

 

その後の彼には、過酷な毎日が待っていた。54日目からは、事故前と同様、オーバータウエルンにあるオリンピックトレーニングセンターに通った。センターの所長であり、96年以来トレーニングの指導を受けているハインリッヒ・ベルクミューラーとともに、復帰に向けたプログラムを開始したのである。ベルクミューラーは、慎重かつ大胆なプログラムを組み、ヘルマンの体力の回復を図った。最初はゆっくりと歩く事から始め、やがてごく軽い負荷をかけたウェイトトレーニングや、バランストレーニングを取り入れていった。その間、常に血液の状態をチェックし、筋肉の活動レベルを確認した。そうして少しずつ、本当に少しずつヘルマンは復 帰に向けて動き始めた。

限りなくゼロに近い可能性

 

ヘルマンは当初、 2001/02シーズンのなるべく早い段階でレースに復帰し、ソルトレイク五輪に出場することを目標としていた。だが、客観的に見て、それは非常に難しい 目標設定だった。すべての計画が100パーセントうまくいって、なおかつ幸運に恵まれた時に初めて実現の可能性が出てくる、といった程度の望みしかなかっ た。ただ、たとえ限りなくゼロに近かったとしても、ヘルマンはその可能性に賭けたかった。もちろん、周囲のスタッフも、そうしたヘルマンの気持ちを尊重し、あらゆる面から彼をサポートした。

 

事故からちょうど120日目、ヘルマンはスキーを履いて雪上に立った。自宅のあるフラッハウのスキー場で、報道陣にも公開のもと、2本だけ滑ってみたのだ。
だが、ヘルマンはふたたびスキーができた喜びと同時に、自分の足の状態が想像していたよりも悪いことを、このとき思い知らされていた。筋力が期待したほど回復しておらず、また神経もきちんと機能していなかったのである。

2002年1月26日。ヘルマンマイヤーはワールドカップレースを開催中のキッツビュールに姿を見せ、緊急の記者会見を行った。この席で彼は
「今シーズンはレースへの復帰を断念する。したがってソルトレイク五輪にも出場しない」と発表。骨折した右脚の状態が思わしくなく、また左脚にも神経の麻痺が残っており、スキーに充分な荷重をかけることができない、というのがその理由であった。

 

彼は失意のままオーストリアを離れ、バハマのビーチリゾートで数週間を過ごした。文字通り血のにじむような努力を続けたのにもかかわらず、当面の復帰をあきらめなくてはならなかったことで、彼のフラストレーションは大きかった。自分が出場できないオリンピックのことなど、考えたくもなかった。彼はオリンピックやスキーに関する一切の情報を遮断し、ひたすら無為の時間を過ごした。
 

春になると、ヘルマン目標を2002/03シーズン開幕からの復帰に切り替え、トレーニングを再開した。スキーにも徐々に乗り始め、夏にはオーストリアスキーチームの南米遠征に参加。フリスキーでは不安を感じさせない滑りを見せた。スーパーGのタイムトライアルでは、他のトップレーサーたちにも、それほどひけをとらないタイムをマーク。今度こそ順調に進んでいる、そう彼が確信し始めた頃、再び異変が起きた。慎重を期したはずだったが、患部が彼の滑りに耐えきれず、激しい炎症を起こしたのである。足は3倍にも膨れ上がり、つばを飲み下す時でさえ、痛みを感じるほどだった。ヘルマンは合宿をを早退し、オース トリアに戻った。
 
その後も事態は一進一退で、劇的な回復はみられなかった。当初の目標としていたセルデンの開幕戦(10月27 7 7日)の出場も、断念せざるを得なかった。
 

こうして0203シーズンは、再びヘルマン・マイヤー不在のまま開幕した。男子のワールドカップは、前年度の総合チャンピオン、シュテファン。エベルハルターがスタートから飛び出し、それをボーディ・ミラーが追いかけるという展開。開幕前には、ヘルマンの復帰がいったいいつになるのか、しばしばファンの話題となったが、いざシーズンが始まると、レースはそれなりに盛り上がりを見せていた。人々は、ヘルマンのいないワールドカップに慣れ、彼の存在は次第に忘れ去られていったのである。

「もう一度レースに復帰するために、あらゆることにトライし、常に大きな痛みと戦ってきた。それでもうまくいかなかった。本当に落ち込んだ。このシーズンもまたダメだと思い、何をすべきかを考えた。すると突然今度は飛行機の操縦法でも習おうかと思い立った」 。

まるで冗談のように思い浮かんだアイディアだが、実際にヘルマンは、11月から12月にかけて飛行機の操縦レッスンを受けた。この間、スキー板には全く乗らず、トレーニングも中断。スポーツのことを考えることもしなかったという。

この頃、彼の精神状態は自暴自棄の一歩手前だった。スキーに対する興味を失い、これまで過ごした辛い日々の後、自分の人生そのものを楽しむことを考えていたのである。だが結果的には、これが幸いした。彼の精神は大空の中で解放され、新たな意欲が湧いてきた。ヘルマンマイヤーの闘争心が、再びスキーに向けられることになったのである。

508日目の復活と521日目の勝利

2003年1月14日。あの忌まわしい事故から508日目、ヘルマン・マイヤーはついにワールドカップに復帰することになった。スイスのアデルボーデンで行なわれる男子GS第6戦にエントリーしたのだ。この決定自体は、正月明けにシュラドミングで雪上トレーニングを行ったときに下されていた。オーストリアチー ムの監督、ハンス・プム、男子ヘッドコーチのトニー・ギーガーがヘルマン自身と慎重に協議した末、ついにゴーサインが出たのである。

 1月10日の新聞には
「事態は急激に好転している。彼はもはや何の痛みを感じておらず、再びスキーへの愛を取り戻した。まもなくレースに復帰するだろう」というギーガーのコメントが掲載され、その2日後には、ヘルマンのホームページで正式に発表。たちまち大きな話題となった。

 

この発表当日、ボルミオでは男子スラロームが行なわれたが、優勝したイヴィッツァ・コスタリッチは、ヘルマン復帰に関して意見を聞かれ、次のように答えている。
「あれほどの怪我から復帰するなんて、僕には信じられない。ヘルマンはすでにすべての栄光を既に手に入れてしまっているのに、これ以上何を求めて戻ってくるのか。その理由が僕には思いつかないよ」 。

またボーディ・ミラーもほぼ同じ内容の感想を述べている。

 

 こうしたコメントからうかがわれるように、実際、この段階ではヘルマンのカムバックに対しては、懐疑的な意見が多かった。メディアの中には、

「ヘルマンもはやワールドカップを戦うほどの力がなく、復帰を目指しているというのも、スポンサーとの契約を延長するためのポーズに過ぎない」という論調さえあったほどである。

 

これに対して、オーストリアスキー連盟会長のペーター・シュレックスナデルは
「ヘルマンは、彼のカムバックを疑問視し、あろうことかスポンサーから金を引き出す偽装工作とまでいった人たちが、いかに愚かだったかを証明するだろう」と強く反論した 。

 もちろん、一方では彼のカムバックを純粋に称賛する意見も根強くあった。ヘルマンは、まだ姿を出さ表さないうちから、すっかり主役の座についたわけである。

 

レース当日、会場のアデルボーデンには平日だというのに朝早くから多くの観客が詰めかけた。地元のラジオ局は、繰り返しヘルマンの応援歌を流し、彼がこのレースから復帰することを伝えていた。観客の多くは、シーズン終了後に引退することが決まっているスイスのエース、ミヒャエル・フォン・グリュニゲンが目当てだっただろうが、彼らとて、久々に登場するヘルマンの滑りには、大きな興味をそそられていたはずである。

ヘルマンは、1本目13番目にスタートした。だが、不運なことに彼が滑る直前、コースの上半分が深い霧に覆われた。視界が極端に悪く、足に不安を抱える彼にとっては、とりわけ大きなハンディキャップとなったに違いない。滑りには、取り立てて見るべきものがなかった。ワールドカップを戦う平均的なレベルには 達しているが、しかし表彰台を争うようなそれではなかった。最初の中間計時で34位と出遅れ、第2計時では32位。最後の急斜面でわずかに追い上げたものの、2本目に進める30位以内に入るためには、あと100分の5秒足りず31位に終わった。

 

「別に緊張しすぎたというわけではなかったが、どうやって滑ればいいのかわからなかったのも事実だ。このコースはただでさえ難しいのに、今日は特に硬くてツルツルだった。ここでは過去に3回優勝しているが、その時はいずれも中間の緩斜面でタイムを稼いだ。しかし今回はただ滑り降りたというだけで、積極性が 足りなかった。正直言って、少しがっかりしているが、最も大事なことは、滑っているときに全く痛みを感じなかったことだ」 。ヘルマンは、表情に少し悔しさをにじませてこう語った。

 

こうして、復帰第1戦でのヘルマンは、いささかフラストレーションを貯め込んでしまったが、彼がレースに出場したことだけで満足できなかったのは、言い換えれば、それだけ確かな手応えがあったということでもある。彼はその手応えをもとに、次第に落ち着きを取り戻した。復帰当初の彼は、あまりに多くのことを望み、自分に対するハードルを高く設定しすぎていた。しかしアデルボーデンの反省から、今の自分はレーサーだが、しかし世界で一番速いレーサーではないことを自覚したのだ。すると、気分的にすっかり楽になった。

 

大事なのは、レースに慣れることだった。技術的にはもちろんだが、むしろ精神的な面でそのことが大きかった。レースを転戦するワールドカップのリズムに体を順応させることを考えた。結果はすぐに現れた。ウェンゲンのラバーホルン大会では、ダウンヒル3連戦で22位と7位に入賞し、早くもワールドカップポイントを獲得した。さらに翌週、キッツビュールのハーネンカム大会ではダウンヒルで6位。レースごとに順位を上げ、トップとのタイム差を確実に詰めて行っ た。

今年のハーネンカム大会は、スケジュールが混乱した。本来は1月24日の金曜日にスーパーGを行ない、土曜日にダウンヒル、そして日曜日はスラロームという日程だった。ところが、連日天候が荒れ狂い、金曜日にはレース実行が不可能。そのため一時はスーパーGの中止も検討されたが、最終的には予備日である月曜日に行なわれることになった。ヘルマンは、なんとしてもスーパーGをやりたかった。彼はダウンヒル、スーパーG、そしてジャイアント・スラロームの3種目にほぼ同じ程度の強さを持っているが、現在の足の状態からすれば、もっともフィットする種目はスーパーGだったからだ。

 

日曜日、キッツビュールではスラロームが行われていたが、この種目には出場しないヘルマンは、地元フラッハウで、 ひとりスーパーGのトレーニングをしていた。約2時間たっぷりと滑り込み、感覚を確かめた。夕方には医師のチェックを受け、少し腫れていた患部の治療も済ませた。準備は万全だった。できることはすべてやって夕方、キッツビュールに戻った。

 

翌日、信じられないことが起こった。ヘルマン・マイヤーは、スーパーG第4戦にスタートした50人の選手の中で、もっとも速いタイムを記録したのである。第1計時では4位。しかしゴールに近づくにしたがってタイムをあげ、それまでトップに立っていたハンス・クナウスに0秒71の大差をつけてフィニッシュ。 後から滑ったクリストフ・グルーバーとシュテファン・エベルハルターの猛追もわずかに届かず、ついに誰もヘルマンのタイムを抜くことができなかったので ある。

 

ヘルマンにとって、この日の条件はけっして望ましいものではなかった。湿った雪が間断なく振り続き、視界はきかない。しかも山頂から麓に向かって左周り に巻くように降りていくキッツビュールのコースは、どうしても右足に負担がかかってくる。特に約300メートルにわたってギャップの激しい片斜面を横切る、コース後半の難所“トラバース”は、右足に爆弾を抱えるヘルマンには相当辛かったはずである。だが、彼は全コースを見事に攻略した。すべてのレーサーが恐怖を感じ、それゆえに畏敬の念さえ抱くという“シュトライフ”。この難コースはヘルマンに大きな試練を与えた末、最終的には彼に微笑んだ。

 

「なんと言ったらいいのか分からない」 。

これがレース後のインタビューでヘルマンが最初に発した言葉である。
「こんなに早く優勝できるなんて、考えてもみなかった。もちろん勝利を望んでいたが、今日勝てるとは全く予想しているいたかった。シュテッフ(エベルハル ターの愛称)が、僕のタイムを抜けなかったのを知った瞬間、これまでに味わったことのない、いろいろな感情がこみ上げてきたよ」 。

 

表彰式でのヘルマンは、さすがにグッとくるものがあったのだろう。うっすらとだが、目に涙を浮かべていた。悪夢のようなアクシデントから520日目 長く苦しい戦いの果てに、ヘルマン・マイヤーは再び世界の頂点に立ったのである。

たが、おそらく彼にとって、この勝利は復活の序章にすぎない。ヘルマンが本当に望んでいるもの、それはワールドカップ総合優勝のタイトルだろう。このオフシーズン、充実したトレーニングを消化し、順調に仕上がりさえすれば、その可能性は充分にある。実現すれば通算4度目。ワールドカップ史上2位タイの大記録となる。そのためにはライバルのエベルハルターを倒さなければならない。そしてもちろんボーディ・ミラーも行く手に立ちはだかるだろう。 2003/04シーズンは、かつてない白熱した優勝争いが見られるはずである。