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2011年2月にドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで行なわれた世界選手権の女子GSで

イタリアのフェデリカ・ブリニヨーネが銀メダルを獲得した。

このとき、彼女はまだ20歳。ワールドカップでは、1度表彰台に立ったことがあるだけの新鋭だ。

優勝したティナ・マゼ(スロヴェニア)とのタイム差、わずか100分の8秒という

新鋭らしからぬ堂々とした戦いっぷりだった。

彼女が手にしたメダルは、イタリア女子チームが獲得した今大会唯一のメダ ルだったが、

その活躍が人々の注目を集めたのには、もうひとつの理由がある。

彼女の母親は、かつてイタリアのエースとして活躍したマリアローザ・クワリオ。

名スラローマーと呼ばれながら、ビッグイベントのメダルには手が届かなかった母の夢を、

30年の時を隔てて、娘が実現したわけである。


 (月刊スキージャーナル20011年7月号に掲載した記事を元に、再構成したものです)

「あしたのレースに、私の娘が出るのよ」とマリアローザ・クアリオが話しかけてきたのは、2009/10シーズンのワールドカップ開幕戦前日のことだった。セルデンのプレスセンターで、たまたま隣り合わせたとき、彼女は嬉しそうにそう教えてくれたのだ。

「名前? フェデリカ。フェデリカ・ブリニョーネ。まだ19歳で、スタート順は遅いけど、とっても有望なの。スキーは私の現役時代と同じロシニョールをはいているわ」
彼女は、まるで自分の開幕レースが翌日に迫っているかのように、少し興奮気味だった。

マリアローザ・クアリオは、かつてのトップ・スラローマー。1980年代前半のワールドカップで、もっともファンから愛されていた女子レーサーのひとりである。170㌢に満たない華奢な身体に、彫りの深い顔立ち。ミラノで暮らす裕福な家庭に生まれ、スキーは家族と共に別荘で過ごす冬の休日に覚えたという。その華麗な生い立ちも相まって、都会派の美少女レーサーというのが彼女のイメージだった。愛称はニナ。本名よりも、ニナと呼ばれることのほうが圧倒的に多かった。
 

彼女がもっとも得意としていたのは、スラロームだ。ジャイアント・スラロームも悪くはなかったが、しなやかやで俊敏な動きは、スラロームでもっとも威力を発揮した。1979年、まだ17歳と8ヶ月の時にワールドカップ初優勝を記録し、その後86年に引退するまでに通算4勝をあげている。充分に誇っていい成績だが、しかし彼女には、煌く才能とともに、はかないもろさが同居していた。ここぞというときにメンタル面での弱さが顔を出し、勝てるレースを落としてしまう。そのせいか、オリンピックや世界選手権のメダルには、ついに手が届かなかった。たとえば、ひとつ年下のライバル、エリカ・ヘス(スイス)が憎らしいほどの強さで勝利を重ねたのとは対照的である。

 

皮肉なことだが、彼女の人気は、そんな不安定さに大きな理由があった。見ている方がハラハラしてしまい、思わず応援せずにはいられない危うさこそが、彼女の最大の魅力だったのだ。マリアローザ・クアリオというレーサーは、ワールドカップの舞台に、ほんのりと甘酸っぱい香りを漂わせてくれる、可憐な存在だったといえるだろう。

2009/10シーズンの開幕戦。デビュー2年目のフェデリカ・ブリニョーネ

現役を引退した後、クアリオはスイスのダウンヒラー、シルヴァノ・メリと結婚した。しかし、ほどなく離婚。その後イタリア人のスキー教師ダニエル・ブリニヨーネと再婚し、彼との間にふたりの子供を授かった。しばらくは主婦業に専念していたが、子育てが一段落すると、ふたたびワールドカップに戻ってきた。今度はレーサーとしてではなく、ジャーナリストとしてである。現在の彼女は、雑誌を中心に幅広いメディアで活躍。現役時代の経験と豊富な人脈を生かしたレポートは好評で、多くの仕事をかかえる売れっ子ライターである。

私は彼女と特別親しいわけではないが、かつて1度だけ一緒に仕事をしたことがある。1987年だったか、月刊スキージャーナルの撮影にクアリオがやってきたのだ。当時のスキージャーナルは、毎年春に内外のトップスキーヤーを招き、スキーテストや技術企画の撮影を集中的に行なうキャンプを開催していた。この年のメインゲストのひとりが、現役を引退したばかりのクアリオだった。場所は、カナダのウィスラー・マウンテン。他には、ハンス・エン(オーストリア)や、グスタヴォ・トエニ、パオロ・デ・キエサ(ともにイタリア)といった元トップレーサーが参加していた。

 

撮影の終盤、5月24日は彼女の誕生日だった。当然のようにみんなで盛大にお祝いしようということになった。彼女の先輩でもあるトエニとデ・キエサが熟慮に熟慮を重ねて厳選したバースデイプレゼントを手渡すと、彼女は顔を真赤にしつつも、とても喜んでくれた。リボンをほどき、きれいなラッピングを開けてみると、中から出てきたのは、色も形もド派手な下着だったからだ。

 

セルデンのプレスセンターでは、そんな大昔の思い出話にも花が咲いた。そして、クアリオは話題をふたたび自分の娘のことに戻すと、こう言った。

「フェデリカには、とても期待している。今すぐには無理かもしれないけど、近い将来、必ずトップに立てると思うの」
それはジャーナリストとしての冷静な評価というよりも、母親としての願望を含んだ発言だったのだろうが、とにかくこのときのことがきっかけで、私はフェデリカ・ブリニョーネという選手に注目するようになったのである。

ガルミッシュ・パルテンキルヘン世界選手権のメダリスト会見

フェデリカは、1歳半のときにスキーを始めた。彼女にとって最初のスキーの先生は、父親のダニエルだった。彼は、北イタリアの代表的リゾートとして知られるクールマイユールでスキー教師をしていた。本格的な競技経験はないが、「スキーのことを深く理解している非常に優秀な教師」というのがクアリオの評価である。そんな彼にとって、娘と一緒にスキーをすることは、この上ない幸せであった。

 

「スキーをするときは、いつも家族と一緒だった」
とフェデリカは幼い頃を振り返る。

「だけど、技術的なことを細かく言われたことは一度もない。先頭を滑るのはいつも私で、パパとママは後ろからついてきた。やさしく見守ってくれる? いいえ、そうではなく『もっとスピードを出せ!』とか『どんどん行け!』ってあおってくるの(笑)」

一家は、スキーだけでなく多くのスポーツを楽しんだ。テニス、ゴルフ、陸上競技、器械体操、アイススケート。夏は2ヶ月間にわたって海辺に滞在し、ダイビングやサーフィンにも熱中した。ただ楽しむだけでなく、いつでも競い合うということを忘れなかった。スポーツで勝ったり負けたりを数多く経験し、そこから何かを学びとる、というのがブリニヨーネ家の教育だったのだ。

 

「我が家ではいつでも勝負していた。トランプをするときだって真剣勝負(笑)。お互いに絶対負けたくないと闘志を燃やして遊ぶ。スキーも同様で、いつでも家族の中で競争してきた。フェデリカが成長してからは、私たちはすぐにスピードでは勝てなくなった。彼女は強いレーサーになったけれど、と同時につねにGood Loser(良き敗者・負けても潔い人)であってほしいと願っている。負けを負けとして受け止めて、そこで学んだことを次のレースに生かす。彼女には、結果よりもむしろ、そういうことの方が大事だと教えてきたつもり」
とクワリオはいう。

「グッドルーザーであれ」というブリニョーネ家の教えを象徴するようなシーンを、昨年のバンクーバー五輪で目撃した。女子ジャイアント・スラロームのレース終了後、ゴールエリアから少し離れた場所で、ふたりが肩を寄せ合うようにして佇んでいるのを見たのだ。

 

このレース、フェデリカは1本目20位と大きく出遅れてしまった。挽回を狙った2本目も、細かいミスを重ねて順位をふたつしか上げることができなかった。2本ともコース全体が深い霧におおわれ、ほとんど視界のきかないなかでのレースだった。このむずかしいコンディションに、フェデリカは自分の滑りがまったくできず結局18位。初めてのオリンピックは、彼女に苦い思いだけを残して終わった。

ゴール後のフェデリカは、目に涙をいっぱいためていた。母親は、失意の娘を慰めていた。それでもこらえきれずに泣き出してしまったフェデリカに、クアリオは、こう言葉をかけたのだという。

「この大舞台に立てただけで幸せなことなの。きょうの条件は、今のあなたにはむずかしかった。もっと経験を積むことが必要。だからもうページをめくって次のことを考えなさい」

 

泣きじゃくる娘に「ページをめくりなさい」と母は優しく言葉をかけた

思い出すのは1982年、シュラドミング世界選手権のスラロームのゴールエリアで泣きじゃくっていたマリアローザ・クアリオの姿である。1本目、クアリオは絶対的な優勝候補にあげられていたエリカ・ヘスを僅差で抑えてトップに立った。しかし、優勝を目前にしながら重圧に負け、2本目に5位にまで転落するという屈辱を味わったのだ。

 

この大会3つ目の金メダルを獲得して歓喜するヘスのかたわらで、当時21歳のクアリオは膝から崩れ落ちたまま、いつまでも顔を上げることができなかった。あまりに対照的なそのシーンは、今でも鮮明な記憶として残っている。ほぼ30年という長い時間を隔てて、私は母と娘の同じような姿を見たことになるのだ。

 

そのことをクアリオに伝えると、

「そう、私は失敗するたび、いつも泣いていたような気がするわ」
と言って笑った。

「だから、あの子が泣いた気持ちは痛いほどわかる。でも彼女は私よりもずっと立派だと思う。オリンピックでの悔しい経験を活かして、世界選手権のメダルをつかみとったのだから」

涙にくれたオリンピックから1年、フェデリカは見事に銀メダルに輝いた

オリンピックでの涙から1年。愛娘が銀メダルを獲得したガルミッシュ世界選手権のレースを、クアリオは観客席から見ていた。もちろん記者席に入ることもできたのだが、あえて大観衆のなかにまぎれて観戦した。今回だけは、何よりも娘の応援を優先させたかったからだ。

 

バンクーバー五輪と同様、この日もコースは霧に包まれた。気温が上がり、コンディションも、あまりよくはなかった。スタート時間が大幅に遅れて行なわれたイレギュラーなレースだったが、しかし、フェデリカは1年間の成長をまざまざと見せつけた。1本目でティナ・マゼ(スロヴェニア)に僅差で続く2位につけ、2本目はさらにマゼを追い詰めた。昨年までは、硬い急斜面でしか速さを発揮できなかったが、今年は対応幅を広げ、どんな条件でも安定して速く滑れるようになった。結局逆転には至らなかったものの、堂々の2位。大舞台の緊張に負けたバンクーバー五輪の雪辱を見事に果たしたのだ。

「2本目のスタート前にはさすがにナーバスになった。でも私よりもママの方が、ずうっと緊張していたみたいだわ」
記者会見でフェデリカはこういって笑った。

 

一方、クアリオは娘の快挙に関してこう語った。
「私もフェデリカもメダルを取れると確信していた。でもお互いそれについて話すことはしなかった。彼女は技術的なアドバイスは何も必要としない。話すことはメンタルなことだけ。今回も『余計なことをことを考えないで、自分の出来ることを精一杯やりなさい。結果がうまくいかなくても、あまり悲しまないで。あなたはまだ若いのだから』とだけ言って送り出した」

 

夢は実現した。しかし、まだこれで終わりではない。

「今回はわずかに届かなかったけれど、金メダルはすでに視界の中に入っている。次の目標はもちろん優勝。表彰式でイタリア国歌を聞くことが出来たら、本当に素敵だと思うわ」。

多くの記者に囲まれる娘を遠くに見ながら、母は静かにこう言った。

 

ブリニョーネ家にはフェデリカの下には、もうひとり男の子がいる。現在17歳のダヴィデがランキングを急上昇中なのだ。ワールドカップに出てくるまでは、まだ時間が必要だが、とても有望だとクアリオは言う。
フェデリカ同様、ダヴィデもその期待に応えられるのか。そして、今度は母と息子の物語を紡ぐことができるのだろうか。

現在のマリアローザ・クアリオ。すっかり母親の顔だが選手時代の面影もたしかに残っている(ガルミッシュ世界選手権のプレスセンターにて)

付記:以下はこのときのインタビューの原文です。

Q 子どもは何人?

「フェデリカともうひとり男の子がいるわ。17歳」

 

Qスキーは?

「もちろん、やっている。とても有望だと思う。そのうち彼もワールドカップに出られるといいのだけれど」

 

Q どのようにスキーを始めたのか?

「フェデリカが1歳半の時、家族でスキーショップに行ったの。他のものを買うつもりで行ったのだけれど、彼女はスキーに興味を示した。プラスチック製のおもちゃのスキー。それを手にとって床に置き、足にそれを着けてトコトコ店の外まで出ていってしまった。だからもうそのスキーを買わないわけにはいかなくなって(笑)。それが彼女にとっての最初のスキー。近所の道でよちよち滑っていたわ。他にも沢山のスポーツをやった。夏は2ヶ月間海辺に行って、泳いだりダイビングをしたり。サーフィンもやったし、アイススケートや器械体操も得意。それにテニスも」

Q そういえば、あなたはテニスもうまかったね。

「ええ、昔はね。今はゴルフを家族で楽しんでいるわ」

 

Q世界選手権について。レース前にアドバイスはしたか。

「いいえ、とくにはしなかった。今シーズン、彼女は前半なかなか調子が出なかった。自信もちょっと失っていたみたい。でも1月に入って、少しずつ戻ってきた。ツヴィーゼルで2位。アスペンで5位。それでチーム内のクオリファイを通ったので、それから少し余裕を持てた。ツヴィーゼルの2位で、世界選手権でもメダルを取れると確信した。でもそれについてはあまり話をしなかった。プレッシャーを与えるようなことはしたくなかったから」

「彼女は、アドバイスを必要としない。するとしたら技術的なことではなく、メンタル面のことだけ。今回も『余計なことをことを考えないで、自分の出来ることを精一杯やりなさい。結果がうまくいかなくても、あまり悲しまないで。あなたはまだ若いのだから』とだけ言った」

 

Q スキーは誰に習ったか?

「一番最初は主人ね。彼はレースを専門にやっていたわけではないけれど、スキーに関してはとても経験豊かでよく知っている。成長してからは、多くのコーチにお世話になった。とくにクールマイユールのスキークラブのコーチ。家族で滑ることも多かった。そんなときは、いつも彼女を先頭に行かせ、私たちは後ろからついていく。ああしろこうしろとは一切言わなかった。ただどんどん行け! って」

「フェデリカは精神的にも強い。なぜなら一家がみんなコンペティティブだから。我が家はいつでも勝負なの。トランプをやるときにも、お互いに絶対負けたくないと闘志を燃やして遊ぶ。スキーも同様、いつでも競争する。子供たちが成長してからは、私たちはすぐにスキーでは勝てなくなった。彼女は強いレーサーになったけれど、同時に good loserでもある。負けを負けとして受け止める」

 

Q 現役時代のあなたは典型的なスラローマーだった。それに対して彼女はGSとスーパーGのスキーヤー。

「そうね、あきらかに私よりもスピードに対する才能があると思うわ」

 

Q スラロームは?

「悪くない。でもこれまではジャイアント・スラロームを中心にやってきて、スラロームの練習はあまり多くはなかった。私たちの頃と違って、今のスラロームは他の種目とは異なるちょっと特殊なレースだから。でも今後、時期を見てスラロームにも力を入れることになるはずで、そのときはすぐにトップ10に入れるでしょう。昨日のレースも悪くなかった。今はまだミス無しでゴールすることが難しいけれど、それは経験を積むことで克服できるはず」

 

Q バンクーバー五輪のGSで彼女は2本目で失敗。フィニッシュエリアから少し離れたところでボロボロ泣いていた。あなたは彼女を一所懸命に慰めていたけれど、あのとき何を話していたのか?

「ページをめくりなさい。この大舞台にいられるだけで幸せだと思いなさい。この条件はあなたには無理だった。もっと経験を積まなければダメ。そんなことを話したわ。昨年の彼女は、急で凍ったコースでないと力を発揮できなかった」

 

Q あの光景を見ていて、1982年のシュラドミングの世界選手権を思い出した。あのときのあなたも、ゴールエリアで泣きじゃくっていた。

「そうね、私はいつも泣いていた。だから、あの子が泣く気持ちは痛いほどわかるの。でも泣かないでと言ったわ」

 

Q 一般的に言って、母親と娘が良い関係を持ち続けるのは難しいのではないか。とりわけ、娘が10代の頃はそういう傾向があるのではないか。

「いいえ、私たちにはそういう事は一度もない。いつでも良い関係を保ってきた。フェデリカはとても素直で、責任感が強くてやさしい。私たちはいつも友達のような良い関係。彼女は私と一緒に何かをすることがとても好きで、スポーツにしても買い物にしても、私と一緒にしたがるの。理想的な関係だと思うわ」