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強烈な個性で戦後の日本の競技スキー界を牽引してきた見谷昌禧。

スコーバレー五輪の代表選手、札幌五輪の特別コーチ、そしてスキー技術の研究。

そのときどきの役割の中で、彼はつねに全力疾走をしてきた。

そして驚くべきことに、そのエネルギーは今なお衰えを知らない。

日本のスキー史のなかでも稀有な存在感を持つ情熱家、見谷昌禧。

その勢いあるスキー人生をたどる。

『月刊スキージャーナル』2003年 月号に掲載した記事を再構成したものです。

 昭和46年に発刊された見谷昌禧の著書『アルペン競技スキー』(実業之日本社)に前書きを寄せた野崎彊は、「見谷昌禧君のこと」と題する文章で次のように記している。
「わたくしが見谷君を初めて見たのは(会ったのではなく見たのである)、長野県飯山の山奥、山の稜線が新潟県で、斜面が長野県というあたりだった。昭和32年の高等学校大会のときである。彼は北海道の小樽潮陵高生だった。スラロームの当日、斜面の途中で腰をおろして競技を見ていたのだが、まことに奇妙なスキーをする選手が目にはいった。奇妙なスキーとは? といわれると表現に困るが、とにかくふうがわりなスキーだった。腰をさげて上体を極端に左右に動かす、とでもいうより方法のないようなスキーなのである。その動きは、いわゆる逆動作、しかも動きは猛烈で、正直なところびっくり仰天した。まわりの人にきくと、当時の高校の第一人者見谷だ、という。「このスキー、はたしてモノになるのかしら」と思った(後略)」。

 野崎は、戦前の学生スキー界で鳴らした往年の名選手である。早稲田大学を卒業した彼は、その後後進の指導に当たり、日本アルペン黎明期の名コーチとして活躍した。後に早稲田大学に進んだ見谷とは、コーチと選手、先輩と後輩として生涯を通じた長い付き合いとなるのだが、その出会いは、このようにいささか一方的であっさりとしたものだったのである。
 

 野崎が書いているように、若い日の見谷はきわめて特徴的な滑りをする選手だったようだ。ひとことでいえば、がむしゃら。まるで暴れ馬のように激しく動き、周囲に猛烈なエネルギーを発散しながら滑る、当時としても異端のスキーだったのである。高校生レベルでは抜きん出ていたものの、はたして将来的に大成するのか? スキーに関しては日本一の目利きとして知られた野崎が疑問に思ったのも当然のことではあった。

 

 野崎が初めて目撃したこのとき、見谷は、競技スキーを始めてまだ3年目だった。そして驚くべきことに、それから3年後、この小樽の暴れ馬は日本代表としてスコーバレーオリンピックに出場を果たす。つまり、見谷は本格的に競技スキーを始めてからわずか6年で、オリンピックへの切符をつかんだわけである。戦後の混乱期を抜け出しつつあったこの頃、雪国にはスキーの名手がひしめいていた。前年の冬に行なわれたコルチナオリンピックでは、猪谷千春がスラロームの銀メダルを獲得。スキーへの熱気は、現在よりもあるいは高かったかもしれない。そうした時代にあって、スキー歴わずか6年の見谷が日本の代表となったことは、やはり快挙というべきだろう。

2009/10シーズンの開幕戦。デビュー2年目のフェデリカ・ブリニョーネ

猛練習と工夫で作り上げた特徴的な滑り。「手前・膝前・外足荷重」という主張は一貫して変わらない(写真は本人提供)

 見谷は中学時代まで野球少年だった。運動神経にすぐれ身体も柔軟だった彼は、たいていのスポーツをうまくこなしたが、その頃、もっとも熱中したのは野球だった。だが、残念なことに体格に恵まれず、パワーのない彼は中軸の選手とはなれなかった。打順は2番か9番。走者のいる場面で彼が打席に入ると、決まって監督から送りバントのサインが出る、そんな地味な役回りの選手だった。
 

 見谷は高校受験に失敗した。目指したのは、北海道でも有数の名門校、小樽潮陵高校である。ろくに準備もせずに試験を受けたのだから、不合格は当然の結果だった。そこで、彼は翌年もう一度受け直すつもりで、夜学に通いながら受験勉強に励むことにした。冬のある日、彼はニセコで行なわれるスキーのレースに出ることになった。まだ正式な部員ではなかったが、受験勉強の息抜きのつもりで、誘われるまま潮陵のスキー部とともにエントリーしたのだ。スタート順は最後尾。ワックスの塗り方さえ知らなかったが、見谷は優勝してしまった。それはけっしてレベルの低い大会ではなかった。シーズン初頭の腕試しとして、近郷のスキー少年ならば誰もが出場を望む規模の大きな大会だった。そんなレースでほとんど素人同然の彼が優勝したことは、衝撃的な出来事だった。そして、このレースが、見谷の人生を大きく変えることになったのである。
 

 小樽に育った彼は、小さな頃からスキーに親しんでいた。だがそれは冬になって他にやることがないからするという程度のことだった。中学のクラス対抗のスキー大会では敵なしだったので、自分にスキーの才能があることは自覚していたが、しかし高校に進んだらまた野球部に入ろうと考えていた。
 ところが、ニセコの一件があったので、潮陵のスキー部は、何としてでも見谷を入部させようとした。見谷の兄はふたりとも潮陵出身でバレーボール部で活躍していたが、バレー部の顧問はスキー部の顧問を兼任していた。その関係で見谷は兄からもスキー部への入部を強く勧められた。そこまで誘われるとあえて断る理由はなかった。こうして見谷は競技スキーへの道を歩み始めた。

 

 それからの彼の精進は、すさまじいものだった。すべての時間をスキーにむすびつけ、工夫と努力を怠らなかった。本格的に始めたのが遅かった分、その後のトレーニングは濃密なものだったのである。
 見谷がもっとも強い影響を受けたのは猪谷千春だった。オリンピックの銀メダリストは大変なスターだったが、見谷にとって猪谷の存在はもっと特別なものだった。同じ大会に出場したとき、彼はつねに猪谷とのタイム差を意識した。それがすなわち自分と世界の一流との差だと考えたからである。彼は猪谷の滑りを徹底的に研究した。雑誌に掲載された猪谷の滑りの写真に分度器を当て、ひざと足首の角度を割り出した。滑るときには、いつも関節をその角度まで曲げることを意識した。また猪谷の滑りを撮影した人がいると聞けば、遠くまで出かけていって頭を下げ、その貴重な8ミリフィルムを借り出した。見谷はフィルムを何度も見た後、今度は鏡の前で猪谷のフォームを真似てみた。そしてまた部屋を暗くしてフィルムを見る。毎日毎日それを繰り返して、猪谷の滑りを脳裏に焼き付けた。夏休みの間、1日も休まずそれを続けると、見谷には猪谷の滑りを完璧にコピーすることができた。1カ月後、持ち主に返却にいったとき、そのフィルムは擦り切れており、映像はほとんど消えかけていたという。

 

 やがて早稲田大学に進んだ見谷は、2年生のときに全日本選手権のスラロームで2位となった。優勝したのは、憧れの猪谷である。この頃には、すでにオリンピックを意識しており、何としても日本の代表に選ばれたいと強く願うようになった。大学が夏休みに入ると、見谷はすぐに立山にこもった。夏でも雪の残る雷鳥沢の雪渓でトレーニングをするためである。歩いて2時間以上もかかる弥陀ヶ原から塩を担ぎ上げ、自分ひとりでコースを作りながら練習に励んだ。リフトはない。だから1本1本を大事に滑った。今ではそういう呼び方をすることはないが、当時、オープンとブラインドゲートの組み合わせに、いくつかのパターンがあり、それぞれにゼーロスとかビクトリアといった名前がつけられていた。見谷はそれらのパターンを正確にセットし、何度も何度も滑った。ひとつのパターンをマスターすると、今度はそれと左右対称の形にセットし直し、また滑る。ひと夏をその繰り返しに費やし、自分の滑りを磨き上げた。そして次の冬、彼は念願のスコーバレーオリンピックに出場することが決まった。

オリンピックへの思い

「スコーバレー? いい思い出なんてひとつもないな」。彼が初めて出場したオリンピックの印象を尋ねると、間髪入れずこう答えが返ってきた。目は笑っていたが、吐き捨てるような口調だった。見谷は44年前の出来事を、今でも本気で悔しがっているのだ。


 このオリンピックのスラローム、見谷は痛恨の失敗を犯した。スタートして15旗門目、大きくバランスを崩し、ポールと激突してメガネを壊してしまう。すぐにコースに戻ったが、それからはまるで暗闇のなかを滑るようなものだった。極度の近視だった彼には、1本のポールが5本にも6本にも見えた。そのなかでもっとも影が濃いものに見当をつけ、そこに腕をねじ込むようにしてゴールまで滑りぬいた。だが、その途中、ブラインドゲートのアウトポールに乗り上げてしまい、それを反則ととられ失格に終わった。微妙な判定だったので、暫定的に2本目を滑ることが許され、この回のタイムは13位。だが、結局判定は覆ることなく彼のオリンピックは終わった。


 帰国後しばらくして、見谷はオリンピックの写真をアルバムに整理した。知り合いの新聞記者が大会中に撮った写真を大量に譲ってくれたのだ。そのなかの1枚に、スラロームでゴールした直後の彼が、スタッフにもたれてうなだれている姿が写っていた。悔しさがこみ上げてくるので、最初のうちは見るのも嫌だった。いっそ破り捨てようかとも思ったが、やがて思い直しアルバムに張った。そしてその横に次のように書きつけた。
「スキー人生でもっとも大きな失敗。地団太を踏む思いだ。だが、これが競技の世界だと痛感した」。

スコーバレー五輪のゴールでうなだれる見谷。人生最大の失敗だったという(写真は本人提供)

 見谷にとって、このスコーバレー五輪が、初めて経験する国際大会だった。ワールドカップはまだ創設されておらず、日本の選手が海外の大会に出かけていく機会は、オリンピックか世界選手権くらいしかない時代だったのだ。見谷は、その選手生活の中で、国際大会をあと2回経験している。62年の世界選手権(シャモニ)とユニバーシアード(ビラール)である。世界選手権ではこの大会から新設されたスラロームの予選(上位50位まで)を8位で通過したが本戦で失敗。続いて出場したユニバーシアードでは、スラロームで3位に入賞し表彰台に上がった。


 見谷は、次のインスブルック五輪への出場をめざした。国内大会では連戦連勝の強さを見せていたが、スコーバレーの屈辱はやはりオリンピックで晴らしておきたかった。大学卒業後、彼は東急電鉄に入社し、系列の白馬観光に出向となった。八方尾根スキー場で思う存分練習ができる環境を手に入れたのである。インスブルック五輪に向けた代表選考会は、その八方尾根で行なわれた。見谷にとっては願ってもないチャンスだったはずである。だがホームゲレンデでのレースに張り切りすぎたのだろう、彼はダウンヒルで激しく転倒。頭部を強打して昏倒する重傷を負ってしまった。その後の3カ月を病院のベッドで過ごした彼は、選手生活からの引退を決意する。周囲からはまだ続けるべきだと説得されたが、意思を変えることはなかった。翌年夏には東急を退社。母校の早大体育局の助手として、一線からは引いたところで、スキーの研究と指導に当たることになった。

ユニバーシアード大会のスラロームで3位に入賞。見事銅メダルを獲得した(写真は本人提供)

 そんな見谷だが、4年後、彼はふたたびオリンピックをめざしてレースの現場に復帰することになる。ただし、今度は選手ではなくコーチとしてである。
 彼を現場に引き戻したのは、前述の野崎彊だった。1972年に札幌で冬季オリンピックを開催することが決まり、全日本スキー連盟の競技本部長に就任した野崎が、見谷に専任コーチとなることを要請したのだった。
 日本のアルペン界にナショナルチームという組織が誕生したのは、実質的には1968年のことである。それまでの日本チームはオリンピックや世界選手権に出場するためだけに集合した急造チームであり、長期的な強化方針を持つナショナルチームと呼べるものではなかった。だが札幌オリンピックで開催国として恥ずかしくない成績をあげるためには、何としてもナショナルチームを組織し、長期にわたる海外遠征を行なうことが必要だった。見谷は、ダウンヒルの担当コーチとして新生日本チームの強化に力を注いだ。


 だが、強化は順調に進んだわけではなかった。ナショナルチームが組織され、長年の課題であった海外への長期遠征も実現したが、それだけで、いきなり強くなるほど単純なものではなかったのだ。それでも見谷はしゃにむに突き進んだ。できることは何でも試し、可能性のあるものはすべてを取り入れた。試行錯誤というよりも猪突猛進だったかもしれない。だが、残された時間を考えたら、迷ったりためらったりしている余裕はなかった。この時期の見谷は、あるいは自身の選手時代よりもエネルギッシュだったのではないか。勢い余って、あちこちに頭をぶつけることもしばしばだった。


 札幌五輪のダウンヒルに出場した富井澄博は、コーチとしての見谷を次のように語る。
「練習には厳しい人だった。だけど、それより何より見谷さんは独創的なコーチだった。さまざまなアイディアを考えて、それを敢然と実行する。たとえそれが世の中の常識から外れていたとしても、やると決めたら絶対にやるという人だった」。また、同じく札幌五輪の代表でスラロームに出場した古川年正は
「見谷さんは、24時間365日スキーのことを考えていた。技術について、あの人ほど理路整然と教えてくれるコーチは他にいなかった。そして自分が預かった選手を強くするためには、周囲とぶつかることもまったく恐れなかった」と言う。


 元来、見谷は激情家である。心のうちにいつも熱い塊を抱えており、そこから発散される情熱が彼を突き動かすエネルギーとなっていた。そのため、ときに感情が理性を超えることもあったが、すべての行動はスキーへの愛情につながっていた。だからだろうか、彼に対する評価は、いつも毀誉褒貶(きよほうへん)が相半ばした。敵も多いが、見谷の人間性を理解できる者は、徹底して彼を慕うのだ。そして見谷自身、自分が認める者に対してはとてもやさしい。とりわけ、自分が強化を担当する選手に対する誠意は非常に厚いものがあった。それはまるで外敵に対しては牙を剥くが、守るべき子供には豊かな父性を示す野生動物のようでもあった。そうした選手との関係を示すエピソードには、たとえば次のようなものがある。


 現役時代の古川年正は、ミズノのスキー板とブーツで戦っていた。だがスキー板はともかく、ブーツはどうしても自分の感覚にフィットしなかった。彼はオリンピックの本番では何とかして外国製のブーツを使いたかったのだが、契約上それは難しかった。そこで見谷は何度もミズノと掛け合い、古川が外国製のブーツをはけるように話をまとめた。当たり前のことのように思われるかもしれないが、実はこれはずいぶんと無茶なことだった。なぜなら見谷自身、ミズノの契約プロスキーヤーであり、マテリアルの開発にも深く関わっていたからである。ミズノの開発陣がどれだけ苦労してブーツを作っているか痛いほどわかっていたし、そうすることがミズノにとって大きな不利益になることも理解していた。彼はそれでもなお、古川には外国製のブーツをはかせてやってくれと懇願した。たしかに短期的に見れば古川がミズノのブーツをはかないことはミズノにとってマイナスだろう。しかしそれよりも、ミズノのスキー板をはいた古川が札幌で好成績をあげることのほうがより重要ではないか、そう主張したのである。最終的にはミズノがそれを受け入れ、古川はエッシングのブーツで札幌五輪を戦った。古川は、本戦では失格に終わったが、予選をグループトップで通過するという活躍をみせた。

 その一方で、見谷は選手たちに非常に厳しいトレーニングを課した。理想のクローチングフォームを習得するため、選手を自衛隊の風洞実験室に入れたり、身体に鉛でできた20㌔のおもりを装着して滑らせたり、滑降コースの負荷に耐えられる筋力を養うため、水上スキーで激しく左右に振り回したりした。それらは、たしかに効果的だったが、選手にとってはいつも限界ぎりぎりのところまで追い込まれるのでたまったものではなかった。とくに選手の反発を買ったのは、鉛を装着しての練習だった。これはベストに10㌔と両足にそれぞれ5㌔ずつ計20㌔の鉛製の重りをつけて滑るもので、日本の短いコースのなかで筋持久力を養おうという狙いだった。だが、上半身に背負うベストはともかく、足に重りをつけると膝や足首が必要以上に曲がってしまい、違和感があるというのだ。見谷は、選手からの不満を充分に聞き、そのうえで、練習の効果を彼らに説いた。その練習法がはたして科学的に正しかったかのどうか。しかし、そうしたぶつかり合いを経て見谷の熱意は選手に伝わり、チームがまとまっていったのは事実だったと、富井澄博は証言する。見谷はスキーを非常に理論的に語る一方、ときにその理論や理屈を超越した行動で人を引き付ける不思議な魅力を持っていたのである。

スキー技術研究家としても一時代を築いた。25冊にも及ぶ彼の著書は日本のスキー氏に大きな影響を与えた

 札幌オリンピックが終わってからの彼は、それまでの選手生活やコーチとしての経験を文章でまとめるという仕事に打ち込んだ。スキーの技術を精細に分析し、レースで勝つためのあらゆる要素について解説した著書は、これまでに実に25冊を数える。自身が経営するスキー学校での活動と並び、これが彼のライフワークといってもいいかもしれない。その一方で、彼はプロスキーヤーとしてスキーの魅力を人々に伝える活動に力を注いだ。毎週末夕方に放映されるテレビ番組「スキーは楽し」に出演したのもこの頃である。フランスのナポレオン街道に沿って、数々のスキー場を訪ねるという企画では、見谷がアルプスの雪を豪快に滑りまくるシーンが人気を呼んだ。番組をスポンサードしたミズノの水野健次郎社長(当時)には、フランスでもっとも権威ある勲章レジオン・ドヌール賞が贈られた。札幌オリンピックのとき、古川の一件でわがままを聞いてもらったミズノに対して、少しでも恩返しをすることができ、見谷は自分のことのようにこの受賞を喜んだ。
 

 スキー技術研究家、ジャーナリストとしての彼は、徹底して現場主義を貫いてきた。所属していた国際スキージャーナリスト協会(AIJS)のメンバーの中で、ただひとりオリンピックの出場経験を持つのというのも彼の誇りである。
「レースの現場に立たなければスキーの技術はわからない。ワールドカップをこの目で見なければ、トップの技術を語ることができない」というのが、彼の信条。スキースクールの忙しいスケジュールをやり繰りし、毎年ほぼ欠かさずワールドカップの現場に足を運んできた。そして自らカメラを構え大量の写真を撮影し、それに独特の視点から解説を加える。世界でもあまり類を見ない彼のスタイルにはファンが多く、海外での評価も高い。70年代に彼が提唱した「円錐振り子のテクニック」「骨盤縦割りの技術」といった理論は、日本のスキー技術に大きな影響を与えたといっていいだろう。

 

 その後、マテリアルの進化により、スキーは大きな変貌を遂げた。しかしその核心部分では30年前の理論が今なお輝きを失っていない。その慧眼には改めて驚かずにはいられない。
「時代の移り変わりのなかで、新しい理論が生まれるのは当然のこと。だが、何が本質なのかを正しく判断しないと、物事を見誤ってしまう。私の理論はもう古いといわれることもあるが、古くても正しいものは生き残る。スキーの技術はたしかに変化したが、根幹にあるものは変わらない。それを言い続けることが自分の使命だと思う」。


 頑固である。そして情熱家である。昭和13年生まれの66歳。見谷昌禧は、おそらく最後の一歩まで、前のめりで現場に立ち続けるのだろう。

プロフィール (みたに・まさよし)
1938年1月5日、樺太に生まれるが、幼少の頃小樽に移る。小樽潮陵高校に入学すると同時に本格的に競技スキーを始め、早稲田大学3年のときスコーバレー五輪(1960)に出場。62年にはシャモニ世界選手権出場。さらに同年のユニバーシアードではスラローム3位。現役引退後は札幌五輪に向けた特別強化コーチとして活躍した。その後は、スキー学校を経営するかたわら、スキー技術の研究に力を注ぎ多くの著書を出版。豊かな経験と独特の視点から構築した理論は、日本のスキー技術に大きな影響を与えた。

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